衒学のすすめ
最近、衒学というものに酷く悩まされています。骨身に染みた知識を知らぬまにひけらかしては悦に入る自身に度々懸念を感じているのです。
日常で見聞きすることを辞書で調べて深めたり、違う概念と結びつけるのは実に楽しいです。様々な食事を味わって食べたり、他の物と食べ合わせる快感に似ています。
ただ、それを欲しているかどうかも分からない他人の前でやるのはちょっとお節介が過ぎるのではないかと思うのです。まるで満腹の方に酒池肉林を叩きつけるような傲慢を感じます。
他方、知識の追求を止めるのもこれはこれで厄介です。味のない会話や食事はお節介以前に誰にも好かれません。
かくして、啓蒙の皮を被った衒学が今自分の中でふんぞり返っています。
自身では知識は有れば有るだけ善い(無いのが罪と言うわけではなくあったら生き方が面白くなるにすぎない)と思ってても、側から見れば知識に酔いしれていると見なされるのが世俗です。故に、啓蒙をなるべく自身の中で完結させられるようにしたいのです。
そんなこんなで、衒学というものの手綱の握り方を知りたいです。少々でも愚かに振る舞うことができれば、処世には困らないかと思っています。
あとこれはただの願望ですが、必殺仕置人みたいに昼行灯でも有事の際にいぶし銀の活躍ができる人にちょっと憧れています。
いたずらに知識をぶちまけて人を振り回すのではなく、大事な時に知恵のスパイスをちょっと振りまいて背中を押してあげられる人になりたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
拝読させて頂きました。
私はあまり知識はありませんのであなたの思いについて詳細にはわかりません。
私達が知っていることというのは仏様から見れば何にもわからない愚かな些細なものでしかありません。
或いは故事ことわざには「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があります。
本当に智慧を持ち素晴らしい方はいつも謙虚であるということです。
いつかあなたも沢山のことを学んでいく中できっと心から素直に謙虚になり、本当の智慧をみにつけることになるでしょう。
そのような素晴らしいあなたを心から祈っています。
仏教の世界へようこそ
とっくりさま!私、仲間!仏教の出番ですねそれは!
勉強をすると、知識や理論なりをたくさん知っていくことなりますね。それらの知識は、何のためにあるかと言いますと、人のためにある、と言えましょう。しかし、知識を持っているだけで、知識を語るだけで、みんなの利益になるかと言えば、とっくりさまも経験されている通り、そうとは限りませんよね。
ここで、私たちに必要な(あえていえば)知識がはっきりします。「知識は、いつ、どこで、誰に対して、どのように、どのようなきっかけで語られるべきか?」という、これを知らねばなりません。この5W1Hのことを、仏教では「縁」と呼びます。そして、縁を守って語られるとき、自他ともに苦しみのない語りとなります。
たとえば、とっくりさまは、衒学のことで悩みを持ち!私たち僧侶への信を持ち!聞く耳を持ち!この掲示板に質問を投稿!しました。こういう縁!があるので、私は自身をもって、とっくりさまにお話することができます。
ところが、もしとっくりさまが、衒学のことでひとつも悩んでもいない!のに、信頼していない!人から、一方的に!衒学についての諸問題と説教されたとすればどうでしょう、「なんだこいつは急に、偉そうに、そんなこと聞きたくない!」と、なるでしょう。
ブッダの語りも、そうでした。必ず問者が、「どうか、法をお説きください」と求めてから、法を説き始めました。縁によって語りが起こるので、こういうのを、「縁起」といいます。完璧に縁起を守って(隨縁して)語るのならば、聞いている人の都合に合わせて、選ばれる用語も、話す長さも早さもトーンも、すべてが完璧に定まってきます。
さて、この縁起を守って語ろうすると、思ったより、みんな、自分の持っている知識など、知りたくなさそうだということ分かります(笑) 質問なんて、大してしてこないんですよね。
では、どうするか…!
質問されるような、人々から尊敬されるような、立派な人にならないといけないんでしょうね。そういう生きる姿もまた、「知識を語る」という方法(how)の1つなのだ…ということですね。
https://ameblo.jp/hiroo117/entry-10450151470.html
こちら、白隠禅師という高僧のエピソードですが、ほとんど語っていないのに、その生きる姿は、実にたくさんの知を展開しています。
質問者からのお礼
なんてこった…また新しい事を知ってしまった…
お二方とも興味深いお話をありがとうございます。
縁、もとい縁起という言葉については仏教としての意味を初めて知りました。普段縁起が良い悪いといったように使ってますが物事の因果全般を意識しているとは知りませんでした。
「稔るほど〜」の俳句の解釈も初めて知りました。これまで黄金色の稲穂が絨毯のように実っている花鳥風月の一光景を詠んだ句と思っていましたが、まさか識者の謙虚を説くものだったとは…
私は、仏教はひたすら欲を捨てる為のものと思っていましたが、お二方のお言葉から、知識に対する欲求を悪として滅ぼそうとするのではなく、むしろ謙虚さや縁起の配慮などによってうまく付き合おうとする姿勢を学び、認識が大きく変わりました。
御返事を下さったお二方に改めて感謝のお言葉を述べさせていただきます。