猫の事故死を受け入れられません
今年の初め、私の勧めで両親にで兄弟の子猫を2匹飼ってもらいました。
心の中でこの2匹が両親が歳をとっても、楽しく幸せにしてくれるんじゃないかなあと思ってました。
でも先日一匹が車に轢かれて死んでしまいました。
当たり前に大きくなって、他の猫と同じように寿命まで生きると思い込んでいたので、すごくショックでした。
両親が溺愛していて、びっくりするくらい懐いていました。
もう1匹の猫とも2人でひとつかのように仲がよかったです。両親の悲しみも感じてしまって苦しくて辛いです。残った猫も寂しそうに見えます。
みんなが幸せになれると思って猫を飼うようにせがんだのに、こんなに悲しい日が来てしまいました。
ふとした時にその猫の最期と両親の悲しさを想像してしまいます。
もう1匹の猫もどこかへ行ってしまうんじゃないかと思うと不安です。1匹は残ってくれてもこんな事になってしまったら、ずっと悲しいままなんじゃないかと思って不安です。
まだ1歳にもなっていなくて、これからもっと愛されるはずだったのに、兄弟の猫と一緒に仲良く幸せに大きくなってほしかったのに、哀しみでいっぱいです。
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その日まで幸せだったのでしょう?
こんばんは。私も猫を飼っていたことがあります。その子の親は車に轢かれましたが、幸い一命はとりとめていました。けれど後遺症が残っていました。体重が物凄く軽くて、持ち上げると「ふわっ」と浮く感じでした。
だんだんと動かなくなり、何をするにも億劫というようになっていき、「自分の死期が近いのを感じているのかな」と思いながら見ていました。
その頃にはもう子猫はいたのですが、「やはり自分の親のことを心配しているのだろうか」とか考えました。
動物はどうも、あまり先のことは考えないようです。そんな余裕はなくて目の前に精一杯。今どこへ行けば涼しいか?今日はご飯を食べられるか?今子猫がそこにいるか?人間よりもずっと、「その瞬間」を大切にしていたように思います。
ですから、あなたの話で「両親が溺愛していた」、そんな日々を送れたことを以てヨシとして良いのではないでしょうか。失礼ながらご両親が何か不測のことに陥り、面倒を見られなくなる可能性もあるわけで、そんな目には遭わなかったというのも幸せだったと言えるのではないかしら。
私たちがコントロールできる、いえ関われることは「今、ここ」であって、遠く未来の幸せを保障することはできないのです。
今回のことから、あなたが学ぶとしたらこの事実ではないかと思います。「受け入れる」とはこの経験を学びとすることだと私は思います。南無阿弥陀仏。
質問者からのお礼
相談して本当に良かったと思いました。
「その瞬間」を大切にしているという言葉が心にすっと入ってきました。
毎日最大限の愛をもらっていたので、幸せだったと思います。
ありがとうございました。