人間のあり方とは
これまで自殺願望について何度もご相談させて頂いたものです。皆さんの真摯な対応のおかげで希死観念は徐々に薄れてきて、心の余裕が出来た事で過去の自分と向き合う事をしているのですが、その中で気がかりな方に気づいたので僭越ながら再びご相談させて下さい。
私は、自由意志の尊重をきっかけに自死について興味を持ちました。「他人に命のあり方を左右されるくらいなら自分で死んだ方が得心が行く」という心持ちに至った訳です。
その発端は世間にはこびる根拠の薄い方便でした。「死は悪である」「子供を産むのが人のあり方である」「生産性の無い人は生きてはいけない」…こうした社会を回す為の方便を自明の考えとして押し付けられる事は今でも受け入れられません。
特に、死を絶対悪とする発想は金輪際受け付けないと思っています。現在の自分は生の目的を少しずつ見つけたので辛うじて死を適度に恐れていますが、それでも全ての人に悪であると考えることは思い上がりも甚だしいと多々感じます。
逆も然りです。誰かの生き様に無責任な横槍を入れる発言を私はしたくありませんしまして本人の納得の外で当人の生き死にを自分が左右する事に大変忌避感を覚えます。恐らく政治や企業経営などは自分には全く向いていないのでしょう。
このように自他の意志を尊重しようとすると、どうしても傍観者の立場を取る事になり、一向に他人との繋がりを見出せなくなってしまうのです。
自己という存在は縁起で成り立っているという事を知っておきながら、いざ生活すると他人の預かり知らぬところで淡々と幸福を追求することになります。
全くもって不思議です。
つまるところ、今の自分は人間不信なのだと思っているのです。
他人が信用できないから自分の力でどうにかする術を追求し続けたということです。しかし、そのあり方を果たして続けていいのか、いやしかし「貴方の為を思って」とうそぶきながら自己の為に他人を操作するのもどうなんだろうか、そんな事をずっと思い続けているのです。
これは果たして人間の在り方としてどうなんでしょう。それとも私は人間を名乗る事を辞めた方がいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
傍らにいるということ
とっくりさん、書き込みありがとうございます。
とっくりさんの「誰かの生き様に無責任な横槍を入れる発言を私はしたくありません」という一言に、共感いたします。
私はつい1週間程まえにhasunohaに登録した、新参者の僧侶ですが、hasunohaについては開設当初から知っておりました。
その時には、相談者の悩み事について、全く責任も取れぬ僧侶が、さも訳知り顔で回答するのって、なんだかな~と思って、そのまま登録もせず忘れ去っておりました。
ただ、最近ふと、僧侶に相談を持ちかけたいという声に、目を瞑り耳を塞ぐのも、それもなんか違うのではと思い始めました。そこで、あらためてhasunohaを見たところ、大切な人やペットなどの喪失体験を語る投稿をたまたま何件も見ていたものですから、これならばグリーフケアについて学んだ私の知識や経験も活かせるし、ちょっと登録してみようかと思い、今に至っております。
さて、私の立場は一体どうなっているでしょうか。究極的には当事者では無く、傍観者なのだと私は思います。私自身、このhasunohaで無責任なことを多々述べておりますが、悲しいけれども相談者の人生そのものについての、責任を負うことは私にはできません。回答や、やり取りについての責任は感じますがね。
一向に他人との繋がりを見出せなくなるのは私は傍観者ではなく無関心者とでも言うべきかと私は思います。それはこのhasunohaで寄せられるようなひとつひとつの言葉に、耳を貸さずに目を背けていた私のあり方でしょう。
傍ら、そばにいるということは私は温かいことだと思います。遠く離れるのではなく、近すぎる距離にいることでもない。適度な距離感を保ちそばにいること。そこに他人との繋がりを見出すことはできませんか?
とっくりさんの質問に直接こたえるというよりも、なんだか自分語りになってしまいましたが、私自身は人間のあり方についてそのように考えて行動しております。とっくりさん、いかがでしょうか?
質問者からのお礼
ご相談に乗って頂きありがとうございます。
御自身では新参者と仰っていましたが、秋山さんは僧侶…もといカウンセラーの立場を理解した上で助言をされている…そういうメリハリのついた生き方が自然にされているようにお見受けいたしました。
これまで幾たびの相談をさせて頂いた身ではありますが、改めて皆様の徳の高さのようなものを感じたと思っております。