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心願成就

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有り難し有り難し 7

いつもありがとうございます。
前回、彼との関係が終わってしまい、立ち直りたいと相談いたしました。
そして、温かいご回答をいただき、私は煩悩のかたまりであったのだと気付くことができました。

その後も毎日のように泣いてしまうこともありますが、なんとか壊れそうな心を抱き締めるように日々生活しています。

そんな折、よく行くお寺さんでご祈祷をしていただこうと思いました。

いつもは少し離れたところからお参りするだけでしたが、ご祈祷のときはご本尊の真ん前でお参りさせていただきました。

その際に『病気平癒』や『心願成就』など願いたいことをお寺さんにお伝えしてご祈祷いただくので、私は『心願成就』にいたしました。
ただ、ご祈祷いただいている最中、私は心の中で特に願い事を思い浮かべることはしませんでした。
今の状況の私であれば『彼と復縁できますように』ですとか、もしくは『新しい出会いがありますように』など具体的な願い事を伝えた方がよかったのかもしれませんが、私はご祈祷中『いつもありがとうございます。』ということと『煩悩だらけの私を許してください。ごめんなさい。』ということでした。

ただご祈祷後に御札をいただいたのですが、その際に『願い事が叶ったときにまたお寺に納めてください』と言われ、やはり具体的な願い事を願ったほうがよかったのではという想いが出てきました。何をもって願いが叶ったことになるのかと。

仏様も心願成就と言っておきながら具体的な願い事がないのだと何を叶えればいいのか分からないとお思いになるのでは?と考えたりして、せっかくご祈祷していただいたのに、その機会をちゃんと活かせなかったのではないかと少し不安になりました。

もちろん、仏様に感謝をお伝えするのも間違っていたとは思いませんし、本心に違いないのですが不安になるということは、私は願いたいことがあるにも関わらず、仏様の前で素直になれなかったのかもとも思います。仏様はそんな素直になれない私をどう思われるでしょうか?

煩悩があり、さらに素直にもなれない私。
もしくは素直になれないのは煩悩があるからなのかもしれません。迷いがあるからかもしれません。
仏様はすべてお見通しでいらっしゃるのでしょうか?広いお心で救おうとしてくださいますでしょうか?

私は救っていただきたいと願っています。
許していただきたいと願っています。

2020年10月26日 15:17

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

 こんにちは。ご質問ありがとうございます。

 古代ギリシアの演劇の演出方法のひとつに「デウス・エクス・マキナ」という手法があります。これは劇の登場人物がにっちもさっちもいかなくなったところで、天から神様がするすると降りてきて、「おまえはあっちに行け」「おまえはこっちに来い」「おまえはそこでじっとしていろ」などと交通整理をしてくれ、全てが解決する、というものです。
 現実の世界でも「デウス・エクス・マキナ」があったら、楽ですよね。困ったら神様が出てきて解決してくれるのですから。
 そのような事がないから、祈りがあるのだと思います。こうありたいという気持ちは大切です。
 しかしご祈祷をすれば「デウス・エクス・マキナ」的に、外から不思議な力がかかって、物事が解決するわけではありません。あなたが「こうありたい」という気持ちを大切にしてあなた自身でどう解決するかなのです。ご祈祷中、願い事の事について考えていても、考えていなくても、あなたが実際に行動しなければ結果は同じです。

 あなたが、悲しい気持ちからどう立ち直るのか、それを仏様はきっと見ていて応援していますよ。

2020年10月28日 10:47
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有り難し
おきもち

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・曹洞宗/静岡県/50代 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、...

「仏教全般」問答一覧

人徳とは何でしょうか?

 年末多忙の時期、しかもコロナ禍のさなか、恐れ入ります。  かれこれ10年前、勤めていた職場をリストラで追われ、どうにか生き延びて参りました。10年をへて、その当時の慢心や、先般ついに手帳まで頂いた障害など、自分自身の上に反省すべき点も多々見い出しつつあります。  にもかかわらず、その当時、とある方から言われた言葉がやはり折に触れて脳裡に甦ります。しかも抗弁しようにも、その方は数年前に急逝なされ、いまはお浄土に。その言葉とは、   「ピンチに出くわして、すぐに救いの手が伸びて来ないのは、人徳がない証拠」 というものです。なるほどな、とも思わされますが、同時にやはり、「ちょっと待ってくださいよ!」という思いもございます。  そのかたは生前、仏教者として特色ある活動をなさった人であり、みだりに批判することは倫理的にも強く躊躇(ためら)われます。それでも、そのかたがお遺しになった会社が、今般のコロナ禍でかなり四苦八苦している様子を人づてに聞かされますと、心の中に「どうしました?人徳がないから左前になるんですよね?」という、どす黒い思いが湧いてこないと言えばウソになってしまいます。  そのかたとは私がリストラされるまで、ご縁あって、幾度か帰り道に御一緒したこともあるのですが、10年前、突然の(……会社側からすれば兼ねて計画していたとおりの)リストラで苦痛の極にあった私へ、「君の声は某宗教の布教師どもの声そっくりだ。不快きわまる!」というお言葉もいただいております。自分は声がやや甲高いので、それが不快感を与えてしまったのか…と思い余った末、喉仏に男性ホルモンか何かを注射して治してもらおうとすら考え、これは家族みんなに止められました。  さて、ようやく立ち直ろうとしている今、この疑問に対する自分なりの答えも日ましに脳裡で形をなしつつあります。このうえ回答僧諸師をお煩わせするのはいかにも申し訳ないと思いつつも、皆様の多年にわたる御回答経験の中から、大所高所に立ったお言葉を頂けたらと念じております。  もっとお苦しみのかたが沢山いらっしゃいます。でも、どなたかお手すきの折に何か無形の御守りともなりそうなお言葉を頂けたら幸甚です。以上、ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。

有り難し有り難し 18
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仏教で気持ちが楽にならないです。

全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?

有り難し有り難し 65
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不審と信心と往生について

1年前にも同じような質問をしたのですが 41願のことを「信心を得たものは諸根が具足する」と書いてある本があって(蜂屋賢喜代という方の四十八願講話という本です)、それなら 身体が具足することが信心を得た証拠になるじゃないか、おかしいじゃないかと思っていろいろな善知識の方に相談しました。 すると先生のように、身体は関係ない、と様々な方からいろいろな理由で言われました。香月院深励師の本には『初住以上の菩薩』と書かれてありました。 そこで素直に「そうだな、合理的に考えて41願以降の願が念仏者に向けられているとは考えられないし、41願のことは考えなくていい」と思えればよかったのですが、なぜか「41願によって信心を得たものは諸根が具足する」という思いが1年ほど強迫観念のように頭にありました。 今も、前ほどではありませんが、1日に何度も「41」という数字が頭に浮かびます。これは疑いなのでしょうか? この不審があっても、往生の障りにはならないのでしょうか。念仏や生起本末には疑いがないのですが、この不審が頭に浮かぶたびに 「こんな心じゃ往生できない」と思ってしまいます。 けれど今はもう不審の「内容」は嘘だと分かっていて、41願の内容は念仏者ではない菩薩のことだと思っています。 この心は蓮如上人の言葉で言うと、自力の心を振り捨てて、の自力の心なのか、妄念妄執がおこるのもとどめるにあらず、の妄念妄執の心なのか、専門的に言えばどちらなのでしょうか 長文失礼しました。変な質問ですみません。ご返事いただければ幸いです。

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