仏教で合点いかないこと回答受付中
救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。
具体例
これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか?
中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。
仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。
苦しみの原因となるものは存在です。 存在していると思っていることです。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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一切皆苦こそ救いの入口
たしかに解脱は簡単ではありませんね。
それでもお釈迦様の教えに従って功徳を積めば、この世で悟れなくても来世以降で悟りやすくなると考えられます。
中道は、闇雲な苦行でも快楽主義でもない仏道、つまり四諦八正道、戒・定・慧の三学を中道と呼ぶのです。
さて、一切皆苦ですが、これこそが救いの入り口の教えなのです。
生き物から苦が無くなることはない、ただ苦の形が瞬間ごとに変わっていくだけ。
息を吸えば息を吐きたいという苦しみが生じ、吐けば今度は吸いたいという苦しみが生じる。
その都度その都度、苦しみに対処し続けるのが生命。つまり、毎日毎秒の宿題は無くなることがない。
家にいる人は旅立ちを夢見、旅人は故郷が恋しくなる。
独身には独身の苦しみ、既婚者には既婚者の苦しみがある。
生き物から苦しみが無くならないと覚ったら、苦しみを差別することが減る。
大病や災害も、ちょっとした身体の痒みも、ゴミ出しの日にゴミをまとめなきゃとかも、この1秒に区切ればちょっとした宿題がある、ただそれだけ。
そこに救いがあるのです。
そして、悩み苦しみの原因である欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩も、結局は1秒1秒の宿題だと思えれば、小学生が毎日宿題があっても笑って暮らしていたあの頃の「普通の心」に戻れるのです。
追記
文字数制限があるので全ての疑問点にはお答えできませんが、たとえば悲しいお葬式に向かう道でも楽しい結婚式に向かう道でも、目の前に横断歩道があれば渡らなければならない、その1秒にある苦しみは、右足を出したから次は左足を出さなきゃというシンプルな苦しみだけ。
苦しみは無くならない、しかし目の前の苦しみの中には大それた悩みはない、そこに救いがある。
どんな大仕事もこの瞬間は単純作業しかない、そこに救いがあるのです。
悟りに向かう長旅も、今の瞬間はシンプルな修行をするだけで合格人生、そこに救いがあるのです。
質問者からのお礼
貴重な助言をいただき誠に有難うございます。
>お釈迦様の教えに従って功徳を積めば、この世で悟れなくても来世以降で悟りやすくなると考えられます。
については、一般人が今世限りで解脱するのはほとんど不可能(これまでお釈迦様しか解脱していないのが真実であれば最低でも1億分の一以下)ですから、一般人にこれを説くのはかなり無理難題を強いていることになるかと思います。
一般人の場合、とてもではありませんが願誉浄史様の仰る通り来世があることが前提でないと成せないと考えております。
来世を信じられなければそれでも精進できるかどうかと言えばこれまた困難を極めると思います。
信じる力がない一般人はどう救われたらよいのでしょうか?
ただ解脱が本当に良い状態であるなら何世かけても目指す価値はあるかと思います。
解脱後は本当に良いものなのか自己の意識はあるのかご存じでしたら教えていただきたいです。
一切皆苦については、一般的な認識ではこの世は苦楽混合と思いますので、普通に考えれば一切皆苦を真理であるとするのは極端な偏った考え方に思えています。
例として愛別離苦としても会っている間は好ましい状態ですし、怨憎会苦も会わなければ好ましい状態を維持できるのに、無理やり逆のことを主張して苦を生み出しているような気もします。
失礼かもしれませんが、一切皆苦を救いの入り口とされているのでしたら矛盾をはらんでいるような気がして仏教の教えを拠り所として精進するのがはばかられてしまいます。決して仏教を否定しているわけではありません。
私は何か信仰しているわけではないのですが神はいると思っています。
苦に対処するのが人生であるなら丸ごと消えてしまって最初からやらない方がましなのではないか、私だけでなく苦しんでいる人はたくさんいるのにそのようにした神を恨んでしまうこともあります。
心が救われるためには仏教が最も適していると考えているものの、それでも咀嚼できない部分があるのです。
また仏教では神などは前提とせず梵我一如の議論についてもお釈迦様は触れられていなかったようです(私の調べた情報源が誤っているかもしれません)がそれについてもご存じでしたら教えていただきたいです。
お釈迦様が生きた時代にもいろいろな主義主張があったかと思います。
それで離戯論ということで精神世界の真理には触れずに実践のみ説いたようですが、真理を知った上で仏教に沿って精進することで達成した後に何があるのかもわからない宿題をしようと思っています。
>大病や災害も、ちょっとした身体の痒みも、ゴミ出しの日にゴミをまとめなきゃとかも、この1秒に区切ればちょっとした宿題がある、ただそれだけ。
>そこに救いがあるのです。
との点は他の方も閲覧するでしょうし遠回しに言わずにもっとわかりやすく教えていただきたいです。
今はインターネットがありずいぶんと便利になりいろいろな情報が簡単に手に入る時代ですから、様々な悩みを聞くことでそれを統合することにより真理を得られることも多々あるかと思います。
願誉浄史様もおそらくハスノハなど様々な方の悩みや相談を受けて得た真理をお持ちかと思います。
是非お教えいただけますと幸いです。