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仏教で合点いかないこと

回答数回答 4
有り難し有り難し 35

救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。
具体例
これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか?
中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。
仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。

2025年5月15日 19:10

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一切皆苦こそ救いの入口

たしかに解脱は簡単ではありませんね。
それでもお釈迦様の教えに従って功徳を積めば、この世で悟れなくても来世以降で悟りやすくなると考えられます。
中道は、闇雲な苦行でも快楽主義でもない仏道、つまり四諦八正道、戒・定・慧の三学を中道と呼ぶのです。
さて、一切皆苦ですが、これこそが救いの入り口の教えなのです。
生き物から苦が無くなることはない、ただ苦の形が瞬間ごとに変わっていくだけ。
息を吸えば息を吐きたいという苦しみが生じ、吐けば今度は吸いたいという苦しみが生じる。
その都度その都度、苦しみに対処し続けるのが生命。つまり、毎日毎秒の宿題は無くなることがない。
家にいる人は旅立ちを夢見、旅人は故郷が恋しくなる。
独身には独身の苦しみ、既婚者には既婚者の苦しみがある。
生き物から苦しみが無くならないと覚ったら、苦しみを差別することが減る。
大病や災害も、ちょっとした身体の痒みも、ゴミ出しの日にゴミをまとめなきゃとかも、この1秒に区切ればちょっとした宿題がある、ただそれだけ。
そこに救いがあるのです。
そして、悩み苦しみの原因である欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩も、結局は1秒1秒の宿題だと思えれば、小学生が毎日宿題があっても笑って暮らしていたあの頃の「普通の心」に戻れるのです。 
追記
文字数制限があるので全ての疑問点にはお答えできませんが、たとえば悲しいお葬式に向かう道でも楽しい結婚式に向かう道でも、目の前に横断歩道があれば渡らなければならない、その1秒にある苦しみは、右足を出したから次は左足を出さなきゃというシンプルな苦しみだけ。
苦しみは無くならない、しかし目の前の苦しみの中には大それた悩みはない、そこに救いがある。
どんな大仕事もこの瞬間は単純作業しかない、そこに救いがあるのです。
悟りに向かう長旅も、今の瞬間はシンプルな修行をするだけで合格人生、そこに救いがあるのです。

2025年5月15日 21:55
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

解脱は誰もがいつでもしています。その道理を学ぶ。

解脱という言葉も独り歩きしてしまうと様々な解釈論が生まれます。
どういうことが解脱の真意か。
生老病死、四苦八苦からの解脱。
この世のあらゆる苦しみからの解脱。
自己の思考の牢獄からの解脱。
六道輪廻からの解脱。
負の無限ループからの解脱。
苦を苦しみと誤解して、只、無垢清浄なる事実として受け止められない状態からの解脱。
これらは想念の世界ともいえましょう。
なぜか。
苦しい、苦しみだと思うのはアタマ、心、思考のやることだからです。
仮に手が痛い、目がかゆい、鼻が詰まるという事実があっても、手も眼も鼻も迷うことはない。苦しいと言っていない。困ることが無い苦です。私も右目がかすむ、手はばね指で曲がらない、鼻が腫れていますが、目も手も鼻も困っていない苦なのです。そういう状況におる苦というだけです。
つまり一切皆苦の「苦」という言葉を多くの人は誤解をされておられるのです。
この世のすべては苦しみであるという風に捉えていませんか?
釈尊や悟った人の真意とはそうではない。
真理としての道理を説いたものです。「一切皆苦」ですから、一切は苦しい、とか、一切は苦しみだ、ではなく、一切は「苦」=「ドゥッカ」=思い通りにならないこと、思い通りにならない状況、不満という事実をあらわしているだけで、この世のすべてが苦しい、痛い、つらいということではないのです。
もしそんなことが真理真実だったら呼吸は苦しいものでしょうか?ものが見える、聞こえる、食べる、旅行、苦しいはずがありません。美味しいものを食べる、家族と幸せに暮らす、良い教えに出会う、確かな真実を見極める、苦しいわけがありません。
ですから、一切皆苦とは、一切のものはみな確かに人間の思い通りにはならないけれども【その通りにそのように自由な姿、人間の考えとは無縁なる「絶対的な自由独立性を持った存在である」】という風に会得されると良いでしょう。これは坐禅をして事実を人間の見解を用いずして眺めれば自明の理であります。
人は正しい道理に目覚めれば即、一切の苦から解脱されます。確かな道理に目覚めるからです。
道元禅師も坐禅=静慮=静かにモノの真実の姿をみて法に住することを通して、人間の見解の添えられていない事実、無垢清浄なる自己の中に、解脱を見出されました。そして身心脱落、脱落の身心なることを明らかにされました。
理知的な教えを学びましょう。

2025年5月18日 7:54
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
お悩み相談 080-2065ー9278 月火水木金土日 8:00~21:00

お釈迦さまと同じ悟り

に達した人は、これまでたくさんおられました。お釈迦さまお一人というのはあなたの誤解だと思います。
 悟るコツは、一点集中の禅定瞑想を越えた観瞑想で、常にそこにあるように見える何かを見て見て見て、じつは生滅を繰り返しているのだと理解(諸行無常)し、無常なのだから安定しない壊れる空しいものだと理解(一切行苦〔苦の意味は苦を含む空しいの方がしっくりきます〕)し、当然それは無我だと理解することです。
 禅定瞑想では自分の外の白壁とかを観続けますが、観瞑想では、そういう一見動きのなさそうな安定しているものではなく、最初から自分の体の中の感覚を観察します。体をどっしりと落ち着けて動かなくしていても、体の中は動きっぱなしです。その一瞬ごとの変化を、ただ、観察し続けると、無常はすぐに納得せざるを得ません。苦と無我は、無常とセットですから、そのうち理解できるでしょう。
 観瞑想の方法や、無常、苦、無我などについて、今はやりのスマナサーラ長老のyoutubeを見るのが手っ取り早いです。

2025年5月16日 7:43
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

あなたは合点がいかないのですね

拝読させて頂きました。
あなたが仏教の教えに合点がいかないことを読ませて頂きました。あなたは仏教には救いの道はないと思っているのですね。あなたがその様に思われてしまうことあるでしょう、お気持ち心よりお察しします。

仏道とは誰もが救われる道を仏と成っていくのことを目指していくものです。それには様々な道のりがあります。
悩み苦しみから救われるためには真理である「諸行無常」「諸法無我」全てのものは移り変わっていくこと、決して実体があるのではない、だから決してものごとにとらわれることなくあるがままを受け入れていくこと。
それが「一切皆苦」苦しみから救われていく道である、ということです。そしてなにごとにもとらわれることなく「涅槃寂静」覚りを得ていくのは仏と成っていく方法です。

それを自らの修行によって体得していく道と仏様の極楽浄土に生まれさせて頂きいて浄土にて清い心となり覚りを開いていく道があります。

あなたがもしも仏教に興味があり学んでみたいと思われるのであれば、これからぜひ機会を設けて学んで下さいね。また様々なお坊さんのお話を聞いて見てくださいね。
またあなたが心からお悩みなさっているのであれば、苦しい思いを抱えているのであればあなたの思いをどうぞおっしゃって下さいね。あなたを心よりお待ちしております。

2025年5月16日 16:00
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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

貴重な助言をいただき誠に有難うございます。
>お釈迦様の教えに従って功徳を積めば、この世で悟れなくても来世以降で悟りやすくなると考えられます。
については、一般人が今世限りで解脱するのはほとんど不可能(これまでお釈迦様しか解脱していないのが真実であれば最低でも1億分の一以下)ですから、一般人にこれを説くのはかなり無理難題を強いていることになるかと思います。
一般人の場合、とてもではありませんが願誉浄史様の仰る通り来世があることが前提でないと成せないと考えております。
来世を信じられなければそれでも精進できるかどうかと言えばこれまた困難を極めると思います。
信じる力がない一般人はどう救われたらよいのでしょうか?
ただ解脱が本当に良い状態であるなら何世かけても目指す価値はあるかと思います。
解脱後は本当に良いものなのか自己の意識はあるのかご存じでしたら教えていただきたいです。

一切皆苦については、一般的な認識ではこの世は苦楽混合と思いますので、普通に考えれば一切皆苦を真理であるとするのは極端な偏った考え方に思えています。
例として愛別離苦としても会っている間は好ましい状態ですし、怨憎会苦も会わなければ好ましい状態を維持できるのに、無理やり逆のことを主張して苦を生み出しているような気もします。
失礼かもしれませんが、一切皆苦を救いの入り口とされているのでしたら矛盾をはらんでいるような気がして仏教の教えを拠り所として精進するのがはばかられてしまいます。決して仏教を否定しているわけではありません。
私は何か信仰しているわけではないのですが神はいると思っています。
苦に対処するのが人生であるなら丸ごと消えてしまって最初からやらない方がましなのではないか、私だけでなく苦しんでいる人はたくさんいるのにそのようにした神を恨んでしまうこともあります。
心が救われるためには仏教が最も適していると考えているものの、それでも咀嚼できない部分があるのです。
また仏教では神などは前提とせず梵我一如の議論についてもお釈迦様は触れられていなかったようです(私の調べた情報源が誤っているかもしれません)がそれについてもご存じでしたら教えていただきたいです。
お釈迦様が生きた時代にもいろいろな主義主張があったかと思います。
それで離戯論ということで精神世界の真理には触れずに実践のみ説いたようですが、真理を知った上で仏教に沿って精進することで達成した後に何があるのかもわからない宿題をしようと思っています。

>大病や災害も、ちょっとした身体の痒みも、ゴミ出しの日にゴミをまとめなきゃとかも、この1秒に区切ればちょっとした宿題がある、ただそれだけ。
>そこに救いがあるのです。
との点は他の方も閲覧するでしょうし遠回しに言わずにもっとわかりやすく教えていただきたいです。
今はインターネットがありずいぶんと便利になりいろいろな情報が簡単に手に入る時代ですから、様々な悩みを聞くことでそれを統合することにより真理を得られることも多々あるかと思います。
願誉浄史様もおそらくハスノハなど様々な方の悩みや相談を受けて得た真理をお持ちかと思います。
是非お教えいただけますと幸いです。

藤本晃様、観瞑想についてお教えいただきありがとうございます。
一般的に瞑想は心の安定に寄与すると思いますので取り入れようと思います。
悟りについてはスピリチュアルでは覚醒という一種の悟り体験をされる方が多くいらっしゃるとの情報があるのは存じております。
私の考えになってしまいますが、覚醒や悟りなどというのは宿題をこなすのに苦を乗り越えられなそうな人が神によって気づきをもたらされ、救われるためのヒントを与えられることと考えています。
平たく言えば強欲で出来の悪い子供が合格点をもらう(願いを叶える)ために補習でテストで出るところを教えてもらっているということと同じだと思います。
ですので優秀な子供の場合は、悟りを得る努力をする必要はなく、真理探究などしなくてよいから仏教やスピリチュアルなど精神世界のことは信じられないようになっているのだと勝手な解釈で考えています。
そう考えると、神は人間の願いはできるだけ叶えてあげたいと思っているのかもしれないとは思います。
そのような意味では、私は元々強欲なのを自認しておりますので、願いを叶えるための課題が多く、精神世界のことを学ぶ必要がある人間だと思っています。
欲にまみれた私の場合、お教えいただいた観瞑想を行って普通の人間に近づけたらそれだけで悟れる可能性があるのではないかと期待しています。
自分を顧みて、少欲知足を目指しつつ八正道などを実践して徳を積もうと思います。

Kousyo Kuuyo Azuma様、ご意見をいただき誠に有難うございます。
Kousyo Kuuyo Azuma様は仏教の根本的な教義「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」について疑いを持ったことはありませんでしょうか。
「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」は真理と思われることを述べていて「涅槃寂静」だけは至る目標を述べているのが並列に扱われているのも違和感があります。
「一切皆苦」は先に述べたとおり私は合点がいきません。
Kousyo Kuuyo Azuma様は日常生活のすべてが本当に苦だと思われているのでしょうか?
納得いかない主張を真理として無理に咀嚼したつもりになって救いの道を歩むということは私にはできません。
「諸行無常」については極楽浄土などが存在して輪廻転生を真理と思われているのであれば、輪廻転生する不変の主体があるとすればたとえその主体の要素が多少変化しても主体が存在するという点においては「無常」ではないと思いますし、「諸法無我」も「法」自体は何かとの関連性の中に存在するのではなく、それだけで存在しているわけではないのでしょうか。他の何かとの関連で法が存在するということであるなら、法というのは他の何かによって脆くも崩れ去ってしまうような性質のものになってしまい、拠り所とするものではなくなってしまいます。
また、諸法無我の「法」や「我」はどのように生起したのかを説明していない点も合点がいきません。
例えば創造主やワンネスなどを仮定せずこれを説明することはできません。
もし仏教が離戯論の立場から精神世界の真理には触れず、衆生が救われることだけ具体的な実践方法のみを論じるなら、「諸行無常」「諸法無我」を前提とすべきでなく、世界の真理がどうあれ実践すべきことだけを説くのが適切かと思います。
「はっきり申し上げて世界の真理はわかりません、しかし苦を和らげるにはこれこれこういうことをすればいいですよ」というような主張です。
Kousyo Kuuyo Azuma様が関わられている仏教を否定するわけではないのですが、時代にも合わなくなってきていますし、洗練される必要はあるかと思います。
煙に巻く説明によって何となくありがたい気がして救われたような感じがするというのではもはやこれからは通用しなくなると思っておりそこが仏教のとても残念な部分です。
ただ実践としての仏教は良いと思っていますので八正道や瞑想などは取り入れたいと思っています。

丹下覚元様、「一切皆苦」の意味をお教えいただきありがとうございます。
丹下覚元様のおっしゃっている解釈が正しい解釈(もしくは正しい解釈の一つ)であるということでしたら、そのように解釈できるように「一切皆苦」に注釈を記載するか誤解を生まないように変える必要があるかと思います。
誤った解釈をして誤った道に進んでしまっては仏教の役目を十二分に果たすことはできないのではないかと思います。
世には思い通りにならないこともあれば思い通りになることもあるかと思います。
私のような者にも思い通りになることもわずかながらでもあると思っています。
空白
>ですから、一切皆苦とは、一切のものはみな確かに人間の思い通りにはならないけれども【その通りにそのように自由な姿、人間の考えとは無縁なる「絶対的な自由独立性を持った存在である」】という風に会得されると良いでしょう。
空白
こちらは所詮言葉の使い方だけの話ではございますが、一切皆苦をすべてのことが
思い通りにならないという意味で使用するのは上で述べた通り適切ではないと思いますし、『人間の考えとは無縁なる「絶対的な自由独立性を持った存在である」』というのは人間ではなく創造主のことを指しているのでしょうか?
もしくは「一切皆苦」とは「絶対的な自由独立性を持った存在である」ということでしょうか?
どのような意図でこの一文を書かれたのかよくわかりませんでした。
空白
社会に多大な影響を与えられる人物もいれば、私のように大したことではないことも思い通りにできない者もおります。この差は一体どのような理由からでしょうか?
このような疑問が生じることから、頻繁に誤解を招く可能性のある表現「一切皆苦」(すべて思い通りにならない)を前提として定義するのは仏教にとって好ましくないように思います。
空白
解脱という言葉は六道輪廻からの脱却の意味で使いました。
私は真理を知っているわけではないものの、この意味での解脱というのは方便ではないかと考えております。
ある時点より六道輪廻から脱却してその後は永遠に定まった状態(永遠不変の極楽浄土のようなところに存在し続ける等)になるというようなことは「諸行無常」の点においてもとても考えにくいことだと私は思っているのですが、この答えを明確にこの世に生きている悟(覚)られた方に確認したいと思っています。
空白
>人は正しい道理に目覚めれば即、一切の苦から解脱されます。確かな道理に目覚めるからです。
これはお教えいただいた内容に照らし合わせると「人は正しい道理に目覚めれば即、一切の思い通りにならないことから解放されます。確かな道理に目覚めるからです。」ということかと思います。
平たく言えば、道理に目覚めると一切の思い通りにならないことが思い通りにならなくても気にならなくなるということになるかと思いますが、世を理知的に見渡しますと、思い通りになる範囲が広い人とそうでない人がいるように見受けられます。
思い通りになる範囲が広い人は例えばお金持ちだから欲しいものを自由に買える金額や選択肢が多いということもありますし、運が良くて何でもうまく思い通りになってしまうということもあるかと思います。
逆に、ある人は経済的に貧しく必要最低限の欲しいものも買えず、病気になったり不慮の事故に見舞われたりします。
この差は何なのかを理知的に考えた場合、確かに八正道などに従って徳を積むという行為は重要なのだろうと思いますし、常軌を逸するレベルでの活躍をして社会に良い影響を与えられる人というのは、とても今世だけで積んだ徳によるものではないだろうことが考察により想像されますし、そうなると前世というのはおそらくは本当にあったのだろうとも思います。
思い通りにならないことから解放されたとしても、思い通りにできるということではないですよね?
私たちは本心では思い通りになってないことをできるだけ思い通りにしたいというのが本当だと思います。
そして仏教をしていてもしていなくても、実際にかなりのことを思い通りにしている人がたくさんいます。
これについて仏教は答えは出せませんでしょうか?
空白
元の質問から逸れましたので戻しますと、以下のようになります。
文字数の制限があり的確なご回答をいただけないかもしれませんが記載しておきます。
空白
六道輪廻から脱却する解脱はお釈迦様しか成し得ていないならそれを目指すのは困難を極めるのでそれを目指すことを掲げるのは、今の私のように誤解されたり反論されたりするので仏教界にとってあまり都合が良くないと思いますし、仏道に進むか迷っている人から見たらどうかとも思います。
もし、お釈迦様以外にも解脱を成した人がたくさんいるとした場合、その人の意識はどうなるのか?生きている時と同じように自己の認識を持っているのかが知りたい。(私は今のところ方便だと思っています)
一切皆苦については、一切は思い通りにならないという意味であれば、思い通りになることもあるしならないこともあり、人によってその範囲も違うので、やはりちょっと極端な主張だと思います。
(「一切」が「すべて」という意味ではなく、「ある場合に限っては」などという限定の意味でしたらこの限りではありません)
誤解のないように繰り返しますが仏教を否定しているわけではなく、身の振り方を決めるために真理を知っておきたいということです。

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