仏教的に、この反省と後悔の考え方はOK?回答受付中
ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」は、心の平和のための教えです。
以下は、反省と後悔について、Gemini(生成AI)の回答です。
「起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)であり、行為者はいないのだから、起きたことについて『自分がどうにかできたはずだ』と悩んだり悔やんだり(クヨクヨ、後悔)するのは道理に合わない。しかし、現実世界で生きていく上で、起こったことから学び、次に活かす(反省する)ことは有益である。」という読み解きが可能です。
達成感というプライド、罪、罪悪感、憎しみ、嫉妬、羨望、責任、敵意、失敗という挫折感、恥、などの自由意志ひいては行為者感覚に起因する心の重荷です。過去を思い煩い、未来を心配します。
お坊さんからの回答 1件
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自分と環境の縁で起きている
またお会いしましたね。私も、この考え興味深いです。「非二元論」をしっかりと学んでいないので恐縮ですが、「全ては運命である」は仏教的にも合っていると思うものの、「では自分は無力なのか」という考え方は、無気力や「流されるまま」に陥りがちな所は注意が必要かと思います。
つまり、「自分が努力する事も運命」と捉えるか「自分が努力することは自分の意思や決意」と捉えるかは、分かれるかと。
「よし、頑張ろう」というのを「そう思ったのだって、何らかの因縁によるもの」と見切ることができれば安穏の道でしょうけれど、「全てが運命ならば、やってもやらなくても同じ」は堕ちていく道のように見えます。
脳みそは、基本的に省エネで行こうとする、と聞きます。それを思えば「意志の力でやるんだ」は精進と言えますが、その決意自体すら運命、とも言えるわけです。
そこで言うと、エーアイが説く「次に活かそう」と思うこと自体も運命であり、ここまで来ると「運命か?決断か?」という問いが意味をなさなくなります。
これは確かに、一つの悩みからの解放ですね。採用してよいと、私は考えます。(と結論づけるのもまた運命です)
そして最後に。あなたがここで質問されているのも、何らかの因縁の結果でしょう。よかったら、その因縁を開陳してみませんか?具体的な相談には具体的な回答がつくものです。(と、わたしが書くのも因縁によるわけです)
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。