志と執着の違いについて回答受付中
志と執着の違いはなんでしょうか?
単位制の高校3年生、両親と妹と暮らしています。不登校の期間があり、高校は留年して四年目です。幼少期から誤解されたり、上手く行かないことが多くありました。中学三年生で発達障害と診断されています。今はバイトをしていますが、話を聞いていないとか、責任感をもってやってほしいなどと言われてしまいます。今年度は高校の単位をとり、卒業後の進路を決める必要があるのですが、自分がどうしたら良いのかわかりません。哲学や心理学に興味があるのですが、何をして生きていけば良いのか、本当にわかりません。漠然とした相談で申し訳ありませんが、アドバイス頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
有能に、せめて平凡になりたい
お坊さんからの回答 2件
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とらわれることなく
拝読させて頂きました。
ご質問ありがとうございます。改めて考えてみるとなかなかそれぞれのことってどうなのかと考えさせられますね。
志は自分がどのように生きていきたいのか、何を大切にして希望や目標にしていくかという信念かと思います。
執着は我欲によってとらわれてしまう心の在り様かと思います。あれこれととらわれてしまいますと自分自身が自由に身動きできなくなってしまって苦しむ元になっていってしまいます。そして様々な災いを自らや周りのものにももたらすことになってしまいます。つまり四苦八苦することになります。
あなたはいかがでしょうか?どのような志をもってこれからの未来を生きていきますでしょうか?
あなたが我欲にとらわれることなく、あなたが自由に志す道を歩んでいかれます様に、希望や目標をもって健やかに与えられた人生を生き抜いていかれます様に切に祈っております。そしてあなたを心より応援させ頂きます。至心合掌
欲や怒りの多寡で
仏教では煩悩を三種類にまとめます。欲と怒りとそれらの親玉の無明(私)です。
煩悩の逆の善は、言動や心の行為に欲がないこと、怒りがないこと、私心がないことです。悟らないと完全には無理ですので、欲や怒りや私心少なく生きることを在家生活では目指しています。
欲と怒りの境目は「私」に取り込みたいか切り離したいかなので、悲しみとか恐れとかも怒りに分類されます。
世の中は欲と怒りが原動力で動くことが大半だと思いますが、仏教では、特に怒りは動けなくなるから自己破壊的だから善くないと見ていて、欲を上手に使うとわりとうまく行くと見ているようです。戦争がどうにもならないほどの損失を出すばかりで、貿易はまあ摩擦があっても何とかなっていることからも、仏教の見方は的外れではないと思います。自分も儲けて相手も儲けるならいわゆるウィンウィンですね。
欲も怒りも、「私が」ほしい、「私が」嫌だ、ということで、根底には「私」という無明があると仏教では見ます。欲や怒りをコントロールすることは、結局、「私」という気持ちをコントロールすることになります。
執着というと、「私」が強い印象があります。志というと、私心が少なく、自分も高まりたくて周りのためにもなるようなことをやろうとしているような印象があります。
仏教では周りのためになることは当然善行為と見ますが、自分が成長することも善行為と見ますので、やはり志というと、善という感じが強いです。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。執着は我欲由来で、志は心を自由にしてくれるものなんですね。
執着と志を見分けて、志を持って生きていきたいと思います。