お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
こんにちは。日本仏教と権力についての質問です。 時々「日本仏教は政治権力に迎合していたため堕落してしまった。」 というコメントを見かけるのですが、 日本仏教は本当に権力に迎合していたのでしょうか? また、仏教では権力や権力者は「悪」なのでしょうか? 私には権力が嫌いな特定の思想を持った人達が 大げさに言っているだけのような気がします。
自分は仏教について全く詳しくありません。 しかし、仏教を辞めたという知り合いから先日こんな事を言われました。 一切皆苦、四苦八苦、諸行無常… 仏教は当たり前の事を言ってるだけで、何の救いも無い宗教だと分かった。 この世の中は抗えない事が多いから、諦めて受け入れて、死になさい。 そういう宗教だと分かった…と。 本当にそうなのでしょうか? 住職の方々の意見をお聞きしたいです。
(編集部より。投稿の一部を変更しています) 彼氏がある宗教に入っており、 御釈迦様の力は2000年程前からなくなった。だからお坊さんになんかしてもらっても成仏できない。大聖人様を信じる人しか成仏できないと言ってます。 また、戒名や登板は金儲けでなんの意味もないと言ってます。本当のところはどうなんでしょう?
仏の心とは大慈悲これなりとはどういう意味でしょうか。出来れば分かりやすく教えて頂きたいです。
年末多忙の時期、しかもコロナ禍のさなか、恐れ入ります。 かれこれ10年前、勤めていた職場をリストラで追われ、どうにか生き延びて参りました。10年をへて、その当時の慢心や、先般ついに手帳まで頂いた障害など、自分自身の上に反省すべき点も多々見い出しつつあります。 にもかかわらず、その当時、とある方から言われた言葉がやはり折に触れて脳裡に甦ります。しかも抗弁しようにも、その方は数年前に急逝なされ、いまはお浄土に。その言葉とは、 「ピンチに出くわして、すぐに救いの手が伸びて来ないのは、人徳がない証拠」 というものです。なるほどな、とも思わされますが、同時にやはり、「ちょっと待ってくださいよ!」という思いもございます。 そのかたは生前、仏教者として特色ある活動をなさった人であり、みだりに批判することは倫理的にも強く躊躇(ためら)われます。それでも、そのかたがお遺しになった会社が、今般のコロナ禍でかなり四苦八苦している様子を人づてに聞かされますと、心の中に「どうしました?人徳がないから左前になるんですよね?」という、どす黒い思いが湧いてこないと言えばウソになってしまいます。 そのかたとは私がリストラされるまで、ご縁あって、幾度か帰り道に御一緒したこともあるのですが、10年前、突然の(……会社側からすれば兼ねて計画していたとおりの)リストラで苦痛の極にあった私へ、「君の声は某宗教の布教師どもの声そっくりだ。不快きわまる!」というお言葉もいただいております。自分は声がやや甲高いので、それが不快感を与えてしまったのか…と思い余った末、喉仏に男性ホルモンか何かを注射して治してもらおうとすら考え、これは家族みんなに止められました。 さて、ようやく立ち直ろうとしている今、この疑問に対する自分なりの答えも日ましに脳裡で形をなしつつあります。このうえ回答僧諸師をお煩わせするのはいかにも申し訳ないと思いつつも、皆様の多年にわたる御回答経験の中から、大所高所に立ったお言葉を頂けたらと念じております。 もっとお苦しみのかたが沢山いらっしゃいます。でも、どなたかお手すきの折に何か無形の御守りともなりそうなお言葉を頂けたら幸甚です。以上、ここまでお読みくださいまして、誠にありがとうございます。
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?
全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?
1年前にも同じような質問をしたのですが 41願のことを「信心を得たものは諸根が具足する」と書いてある本があって(蜂屋賢喜代という方の四十八願講話という本です)、それなら 身体が具足することが信心を得た証拠になるじゃないか、おかしいじゃないかと思っていろいろな善知識の方に相談しました。 すると先生のように、身体は関係ない、と様々な方からいろいろな理由で言われました。香月院深励師の本には『初住以上の菩薩』と書かれてありました。 そこで素直に「そうだな、合理的に考えて41願以降の願が念仏者に向けられているとは考えられないし、41願のことは考えなくていい」と思えればよかったのですが、なぜか「41願によって信心を得たものは諸根が具足する」という思いが1年ほど強迫観念のように頭にありました。 今も、前ほどではありませんが、1日に何度も「41」という数字が頭に浮かびます。これは疑いなのでしょうか? この不審があっても、往生の障りにはならないのでしょうか。念仏や生起本末には疑いがないのですが、この不審が頭に浮かぶたびに 「こんな心じゃ往生できない」と思ってしまいます。 けれど今はもう不審の「内容」は嘘だと分かっていて、41願の内容は念仏者ではない菩薩のことだと思っています。 この心は蓮如上人の言葉で言うと、自力の心を振り捨てて、の自力の心なのか、妄念妄執がおこるのもとどめるにあらず、の妄念妄執の心なのか、専門的に言えばどちらなのでしょうか 長文失礼しました。変な質問ですみません。ご返事いただければ幸いです。
先月、父が亡くなり、葬儀場から火葬場まで霊柩車に棺を乗せ移動し、火葬前に僧侶の方に読経して頂き、火葬炉に棺を納める時に僧侶の方がベル?鈴?(名前が分かりません)のような物を鳴らして誘導?しているように見えたのですが、それには何か意味があるのですか? また、ベル?鈴?の名前を知りたいです。 ちなみに私は曹洞宗なのですが、宗派により異なるのでしょうか? よろしければ、お教え下さい。
こんにちわ お坊さまに聞きたいのですが、どうして仏教には女性差別的な内容があるのでしょうか? 先日、千葉県の民俗博物館で開催されている『性差の日本史』展に行って来ました そこでは仏教には五障説や罪業観が含まれており、それが女性差別的内容だとはじめて知りました。 なぜそのような内容をブッダは入れたのでしょうか? 信仰にすら性差を出したのは何故でしょうか?
皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。 タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。 御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、 この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、 世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。 あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。 沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。
少し、仏教(日本の仏教、大乗仏教?かわかりませんが)を調べてみたのですが、三毒という概念が出てきました。そこの怒り、瞋は世の中を悪くする毒だという考え方に触れました。 ですが、私が思うにこの毒こそ、今の世の中に必要な薬ではないのでしょうか? 今のしらけきっている世の中では本当に救われる存在に対して別に心動かさない。私と関係ないという愛のない空気が漂っています。そんな中だからこそ、ちゃんと憎むべきだと思うのです。不正や、不義を見つけ、恨み、ほかの不正、不義に怒り、徳をかざすもの(徳の騎士)達の闘いこそが、この世の中に血を通わせると思うのです。確かに多くの人達が死ぬでしょう、正義もみつからないでしょう。ですが、不毛なものではないと思うのです。その痛みを知ったからこそ愛を求め、与えることができるのではないのでしょうか。転じて、少し仏教ディスをしますが、なぜそういった熱い魂を毒と切り捨て、平穏という退廃を望むのですか?それは持っているもののみ、自身の苦しみに気づかずに他人を傷つける愚者を増やすだけではないのでしょうか?それでは真に救うべき絶望に抗い、戦う者達に失礼ではないですか?そのものらは心の安寧のために戦っていると?一度、絶望したものは死ぬまで安寧とは無縁の人生を送るでしょう。そんな者達に安寧は残されていると?彼らはただ絶望と戦い、苛烈に人生という闘争の中、死ぬことだけが救いだと思うのですが、どうでしょうか?
いつもありがとうございます。 前回、彼との関係が終わってしまい、立ち直りたいと相談いたしました。 そして、温かいご回答をいただき、私は煩悩のかたまりであったのだと気付くことができました。 その後も毎日のように泣いてしまうこともありますが、なんとか壊れそうな心を抱き締めるように日々生活しています。 そんな折、よく行くお寺さんでご祈祷をしていただこうと思いました。 いつもは少し離れたところからお参りするだけでしたが、ご祈祷のときはご本尊の真ん前でお参りさせていただきました。 その際に『病気平癒』や『心願成就』など願いたいことをお寺さんにお伝えしてご祈祷いただくので、私は『心願成就』にいたしました。 ただ、ご祈祷いただいている最中、私は心の中で特に願い事を思い浮かべることはしませんでした。 今の状況の私であれば『彼と復縁できますように』ですとか、もしくは『新しい出会いがありますように』など具体的な願い事を伝えた方がよかったのかもしれませんが、私はご祈祷中『いつもありがとうございます。』ということと『煩悩だらけの私を許してください。ごめんなさい。』ということでした。 ただご祈祷後に御札をいただいたのですが、その際に『願い事が叶ったときにまたお寺に納めてください』と言われ、やはり具体的な願い事を願ったほうがよかったのではという想いが出てきました。何をもって願いが叶ったことになるのかと。 仏様も心願成就と言っておきながら具体的な願い事がないのだと何を叶えればいいのか分からないとお思いになるのでは?と考えたりして、せっかくご祈祷していただいたのに、その機会をちゃんと活かせなかったのではないかと少し不安になりました。 もちろん、仏様に感謝をお伝えするのも間違っていたとは思いませんし、本心に違いないのですが不安になるということは、私は願いたいことがあるにも関わらず、仏様の前で素直になれなかったのかもとも思います。仏様はそんな素直になれない私をどう思われるでしょうか? 煩悩があり、さらに素直にもなれない私。 もしくは素直になれないのは煩悩があるからなのかもしれません。迷いがあるからかもしれません。 仏様はすべてお見通しでいらっしゃるのでしょうか?広いお心で救おうとしてくださいますでしょうか? 私は救っていただきたいと願っています。 許していただきたいと願っています。
仏教をもっと知りたくて、ネットを活用していたところ、 hasunohaさんを知りました。 過去のQ&Aを拝見させて頂くと、 実際の僧侶の方々のお答えの方が難しい言葉を並べた活字より、 私には馴染みやすいような気がします。 (以下はプロフィールと重複しますが) 縁あって(しかもまったく別件で2度)、真言宗に関わるようになり 30年近くになります。 その頃は少しずつ、作法等を教わったのですが、 2年ほどで絶縁したため、基本を知らず、現在に至ります。 昨年、不思議なご縁の下で ホントに自分がやりたい事は何か?を 時間を掛けて自分に問い、 やはりご縁のあった仏道を進みたい。 今世に生まれた意味を知りたい。 そして少しでも人様のお役に立つのなら・・・ まずは 読んでるお経の意味を知るべきよね、 仏教用語的な言葉の意味も知るべきよね、 と、ネットで検索三昧。 そうなるとどんどん拡大してしまって、 真言宗ってそもそも・・・ 父方は浄土真宗でお寺さんもすぐ近く。 浄土真宗ってどんな考え方なの? 大日如来、阿弥陀様やお釈迦様って? などいろいろと知りたいことが増えてしまいました。 言葉が適切かはわかりませんが、 効率的な学び方を教えて頂きたくてこの場をお借り致しました。
大学で仏教の授業をとっています。辞書で解脱の意味を引くと煩悩から解き放たれるなどとありこれについては納得なのですが、元々の解脱の目的は輪廻のサイクルから抜け出し仏になることだと学びました。今でいう解脱とは少し違ってさらに超自然的なことのように思えます。 しかし一度死ねば自分が来世何になるかなど知る由もありませんし、認知できるのは現世の記憶だけです。となると、自分がどれだけ輪廻をぐるぐるしていようがそこまで苦に感じないのではないでしょうか。わざわざ輪廻から脱する必要はあるのですか?それとも輪廻から脱したいというよりは、仏になりたい、仏が見ているのと同じ景色が見たいということなのでしょうか。 昔の人たちが解脱を目指したことにはどのような意味があるのか教えていただきたいです。
カンボジアで1年間お坊さんとして過ごしました。 あれから9年が経過。 27歳になりました。 このサイトを知り、色々と思う点がありますので、質問させて頂きます。 ※プロフィールに生い立ちなどを簡潔に書きました。 参考によろしくお願いいたします。 ① 上座部仏教と大乗仏教の違いと共通点って何だと思いますか? ② 私は理解を求めるタイプであり、知を探求するタイプです。 故に、唐突に寂しさで胸が締め付けられます。 過去と自分にはある程度向き合えた為、寂さとの向き合い方があれば教えて頂きたいです。 ③ 文章を書くのと、探求することが好きです。極端に集中するタイプであり、ゲーマーです(1つのゲームを突き詰めるタイプ) 反面、ずぼらであります。 この私が目指したい事として。 ゲームシナリオライター ライター があるのですが、怠惰なところが何よりも強く、行動に絶対に移さないしがらみを感じます。 どのようにして脱却すべきでしょうか? 日本のお坊さんという立場からのアドバイスがあればよろしくお願いいたします。
生きながらにして成仏するために、行動として日々実践していくことや仏法が書かれた書物等を教えてください。 ただ、宗派に分かれる以前の仏教(真の仏教)の成仏を望んでいます。 唱えれば極楽浄土に行ける等のものではなく(宗派の批判では無いです。例が上手く書けずに申し訳ございません) 間違えのない、この上ない確かな成仏を追求していきたいです。 お力を貸して下さい。 ある事件が機縁となり、自身の苦しみ・迷いを救い そして機縁となった衆生を救いたいです。
こんにちは。初めて質問いたします。 お寺や修行のドキュメンタリーを見ることが多いのですが、その中でよく修行僧の方が「○○をさせていただく」(例えば回峰行であれば、歩かせていただくという風に)という表現をよくされることに気づきました。 こちらの表現には何か元となる仏教の精神や教義はあったりするのでしょうか? 初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
『100万回生きたねこ』を読みました。 猫が何度も生まれ変わってようやく解脱(?)するところが感動的だったのですが、仏教っぽい気がしました。 他にも、この作品のこの部分は感動したし仏教的に感じる、というようなものがありましたら是非教えて頂きたいです。
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