お坊様にはいつも大変お世話になっております。 私の実家も嫁ぎ先も偶然、浄土真宗本願寺派です。浄土真宗本願寺派が盛んな地域では小さな頃からお寺さんへ伺ってお正信偈をご門徒さん皆さんでおとなえしたりご法話をお聴聞したりなさっておられると思うのですが私が住んでいた地域では理由はわかりませんがあまり積極的な活動をしてこなかったので、私は今になってやっとお正信偈をおとなえしたりご法話をお聴聞させて頂いております。 ところで伝統仏教の宗派の特徴を完結に教えていただけたら思いまして書かせて頂きました。 例えば天台宗さんは仏教の総合大学と例えられたり、曹洞宗さんですとお釈迦様の教えと座禅に重きを置かれているのかなあと思っています。 何故これを伺いたいのかと申しますと知人で仏教を学びたい。でも何をどうしたら良いのか今ひとつ良くわからない。と言っておられる方がいます。それぞれの宗派の特徴やお檀家さんがどのような宗派独特の活動をなさっておられるのかを教えて頂けるとありがたいです。 どうぞ宜しくお願い申し上げます🙏
土中入定のインドでの歴史/アイディアはいつからなのでしょうか? 日本の即身仏には土中入定を行いますが、インドのヨガ修行者も似たようなことをしている動画をyoutubeで見ました。ということは、即身仏の土中入定のアイディアは、日本発祥ではなくて、インドから来ているのでしょうか? もしインドから来たとしたら、このように地面を掘って瞑想を行うという修行はいったいいつ頃から始まったのでしょうか?またどの古代インドのどの聖典(文献?)にこの土中入定の記述が書いてあるのでしょうか? また、空海が土中入定のヨガ方法を日本に持ち帰ったのでしょうか?そして、東北地方でその方法が弟子たちによって広められたのでしょうか?とても混乱しています。。 ちなみに、ChatGPTで聞いたら、「仏教の創始者である釈迦も、修行時代には土中入定を行ったという伝説があります」と返答がきたのですが、これは本当でしょうか? 困っています。返答お待ちしております。
今まで来世・霊魂・輪廻転生について質問しました ご丁寧な回答ありがとうございます 回答を頂いた内容だけでなく、他の質問に対する回答も読むようにしております。 そこで新たに知りたいことが出てきたので 日本になじみのないチベット仏教について質問します。 【質問 その1】 チベットのダライ・ラマ法王とは日本の僧侶から見てどんな立場の方なのでしょうか? ①日本に存在するカトリック教会から見たローマ法王のように頂点に立つ人物である認識ですか? ②日本の仏教界から疎遠にみられているのでしょうか? ③昔の院政をしていた皇族(白河法皇など)のように高貴な身分の人と言う認識でしょうか? (②ならば キリスト教における カトリックとプロテスタントの関係、イスラム教のスンニ派とシーア派の関係のようなもの) (③ならば人の道を説く宗教家と言うより権謀術数を駆使した政治家) 【質問 その2】 チベットの ダライ・ラマで検索すると 以下のような話が出てきました https://diamond.jp/articles/-/34724?page=2 上記サイトから転載 輪廻転生、前世の存在については、現在まで多数の文献等に報告されています。 また、チベットのダライ・ラマ法王は何度も転生を繰り返しているとされ、その位の継承は、代々転生者(生まれ変わり)を探し出すことでなされています。法王が亡くなると、次に生まれ変わってくる方角などが予言され、数年後、それにあてはまる幼児を探し出すと、先代の遺品を選ばせたり、先代の身近にいた人物を見分けさせるなどして前世の記憶を試すのです。現法王も幼少時に、先代ダライ・ラマ13世の愛用していた数珠を見分け、側近の名を迷わず言い当てたと言います。 この話は信憑性の高い話なのでしょうか? 【質問 その3】 上のURLは 東大病院で責任のある地位にいた医師が書いたものです。 ここでは 前世の記憶がある人の話が出たり、 霊媒師を通して自分の亡母と会話をした話が出ています Yahoo 知恵袋ではこのようなQ&Aもありました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14270511814 これを読んで お坊様はどのような感想を持たれますでしょうか?
お坊さんこんばん。たくさんの質問の中から回答していただきありがとうございます。 早速質問ですが、精神が不安定な時に聞くとホッとするような、安心するような仏教用語、禅語などはありますか? また、お坊さんが個人的に好きな言葉はありますか?
私の実家の菩提寺との関係にについてご相談です。 昨年末に実父が亡くなり葬儀を行いましたが、お布施の金額や住職の振る舞いが納得できるものではなく、離檀を考えております。 お布施の金額についてお伺いをたてたところ、60万円。お車代2万円×2人分を請求されました。お布施とは、そもそもお気持ちであり、金額を提示されるものなのでしょうか、また葬儀は30人ほどの小規模のものでしたが、脇導師もいらっしゃいました。菩提寺ではない近隣の寺からいらしたようです。2人必要なのでしょか? 戒名は一番下のランクで葬儀社の方も驚いていました。実家周辺の同じ宗派の寺の中でもかなり高額とのことです。 今までにも、年期法要など毎回、かなり多くのお布施を要求されています。お布施をお渡ししたときに私たちの目の前で、お布施の中身を数え確かめたこともありました。 住職として信頼できないこと、菩提寺には墓がないこと(自宅近くの公共の墓地に墓はあります)今後、これからもかかるであろう高額な費用を捻出することも難しいので離檀を考えています。 離檀の際にお気持ちはお支払いしますが、離檀料として30万円もの金額を支払う必要はありますか? (先日、49日の相談をした際に〝今後のお付き合〟と書かれた用紙を渡され)盆暮れの付け届け○〇円、年季法要お布施〇〇円 等と書かれている用紙に離檀料25~30万円との記載がありました。 嫁ぎ先もたまたま同じ宗派ですが、もっとこちらの話に耳を傾けてくださいます。地域が違えば色々と違ってくるとは思うのですが、どうなのでしょうか
仏教の本を読んでいたら次のような一節がありました。 若い人たちに授戒して騒ぎになり、授戒した僧を叱るお釈迦様の言葉だったと思います。 “二十歳に満たないものは、暑さ、寒さ、飢え、渇き、虫刺されと痛み、風と太陽、地を這う動物との接触、厳しくそっけない言葉に耐えられない。彼は、死に至るまでのあらゆる身体的不快や苦痛を、我慢できない。だが、二十歳になればそれができる。このことは、いまだ我々に信頼を寄せていない人々に信頼を抱かせることも、すでに信頼を寄せている人々の信頼を強めることもできない” 最後の一文はどういう意味でしょうか?本筋と異なりますが、もしよろしければ、あわせてご教示いただければ幸いです。 私は二十歳を超えていますが、これらのことに耐えることができません。本当に毎日つらくてたまらなく感じます。さらに年をとるとますますつらくなるのかと思うと、怖いです。 "二十歳になればそれができる"、とありますが、大抵の人は耐えられるのでしょうか。私は人生で、努力をしてこなかったから、苦しいのでしょうか?成長し損ねたのでしょうか?40になって今からどうしていけばいいのかと思います。 苦しい状態がずっと続いています。 お言葉をいただければ、幸いです。
こんばんは。中東宗教であるゾロアスター教やイスラム教では、生きていた時の善行と悪行、あるいは懺悔の度合いなどでそれぞれ天国(浄土)へ行くか地獄へ行くかを裁かれるなどと言われています。これは日本でも、閻魔様などと言われて日本人の基本的な宗教観になっていますよね。 私は敬虔な真言宗の家庭に生まれ、「朝起きたら食事がお不動様に祀られる」というのが当たり前の光景で育ちました。そんな家庭で、よく「いいことをしたら天国へ、悪いことをしたら地獄へ」と教えられたものです。 「神仏を信じ恐れたり感謝したりし、清く正しく生きる」。こういった思想は、仏教的に言えばどこの宗派にあたるのでしょうか? 多分ですが上座部仏教や禅宗は違いそうで、きっと大乗仏教的な考えですよね。日本人に根付いているのかそれともうちの家庭が特殊だっただけなのか気になったので質問させていただきました。お読みいただきありがとうございました。
近所のお不動産様にご相談し、 本位牌への魂入れをして頂こうと考え中です。 菩提寺がなく、お作法について素人の為、 お寺様とお不動産様の違いについてを、 ご教授頂けますでしょうか? よろしくお願いいたします。
最近、他宗にも興味を持ってあれこれ勉強しているのですが、阿弥陀如来は真言宗では大日如来の分身、天台宗では久遠実成の釈迦如来の分身と捉えているようです。 そこで、はて我が浄土宗ではどうだったかな?となりました。 僕の理解では阿弥陀如来の方が上位で釈迦如来は阿弥陀如来の誓願を衆生に伝えるために娑婆世界に現れたものだと捉えていましたがどうでしょうか? それとも浄土宗も天台宗から派生したのだから僕が聞いた事ないだけで久遠実成の釈迦如来の分身ということになっているのでしょうか? またそれ以外の他宗(例えば禅宗)などではどう捉えているのかもお聞きしてみたいです。
こんにちは 初めて質問させて頂きます 昨今テクノロジーの進歩は凄まじいですよね 人工知能が一部では人間を上回ってその内技術的特異点を迎えると言われたり、粒子加速器などで宇宙の始まりを解明する試みもどんどん進んでいます そんな中で将来、技術が進む中で仏教など宗教は信仰を失っていくでしょうか? お坊さんの考えを聞きたいです また、出来ればお坊さんのテクノロジーに対する考え方も聞いてみたいです 曖昧な質問となってしまい申し訳ありませんが回答をお願い致します
私は病弱で、精神も患っていますし体も患っています。臓器もボロボロで、28歳でそこそこ若いのに身体能力はもう老人のそれです。いや、下手をすれば健康な老人の方がもっと体力があるかもしれません。けれど、そんな自分でも人助けがしたかった。そして私はある結論に辿り着きました。 それは、今の現代を支配している「ゲーム」という文化を使ったものです。自動演算(わかる人に言えば連射コントローラー)をしてくれる機械(ちゃんとアマゾンでも発売されている正当な品でゲーマーなら愛用者も多く、違法性のものではありません)を使い、寝ている間にオートで作業を行ってもらい、長い作業時間に対して確率1%を下回るレアアイテムを入手したら、それをSNSを使って無償で誰かに配布する行為です。 これならば「自分の得」を削って誰かに譲ることそのものをボランティアにしているため、体力を使わなくて済みます。つまり、私は人に譲るためだけにこの作業を黙々と続けているのです。人を喜ばせることに、何か自分の魂の行き先に必要性を感じ、それを行うことに自分も喜びを感じているからです。 これは仏教的に言ってなんらかの「行」にちゃんとあてはまっているでしょうか。また、己の中の仏をちゃんと育てることができているでしょうか。なまじ、ゲームというエンターテイメントを使ったものなのでこの質問をすること自体に対して不安はありますが、よろしくお願い申し上げます。
釈尊は自己の体は虚しいものだし生老病死は必ず来るものですし執着する価値がないといってるように解釈しております。 また私は今1日8時間程度用事を作ったりして意識的に体を動かすなどをしています。 釈尊がいっているように執着で運動したところでいつかは病気になるんだし無意味だとしても出来るだけ医学が推奨するように執着的な健康な行動(ウォーキングや食事、プログラム的に体を動かす)などをしていったほうが単純に得ではないでしょうか。 お坊様方のような清い心を持っていれば運動も食事も自然に健康的になるとおもいますが、今!人格的に未熟で運動ができないため、執着的な運動をしてでも奇病や早期的病気や腰痛足痛などを予防することを釈尊は実際どう仰っていますでしょうか。 人格が未熟で運動できないのが原因で病気になったとしても気にとめないということでしょうか。 ブッダの言葉(どこかの記事でブッダの言葉で体を動かすことにかまけないことと見たことがあります。)や一部動画ででてるような説法を聞いてもいまいち理解できていない状況です。 そもそもの私の解釈の違いなどがあればぜひともお教え頂ければと思います。よろしくお願い致します。
私はバガヴァッド・ギーターというインドの聖典が大好きで、その中に「奉仕活動によって解脱ができる。それは行よりも有効な手段」という記述があります。私の夢は解脱とみんなが幸せな世界であり、そのためにボランティア、人助け、世界のためになる選択肢を選ぶことが大好きです。 しかし、達磨大師はこう言われました。功徳(つまり私でいう、解脱を目的としていること)のために寺を建築したり写経したりしても新たな煩悩を生むだけであり無功徳であると。これは、解脱という利己的な目的を持って人を助けたり救ったところで自分は何も得られるものがない、ということなのでしょうか。 奉仕活動によって解脱を目指すというのはシク教やヒンドゥー教的な考え方のはずで、確かに私は若い頃にいっぱい罪を犯したためその分、誰かを助けたり誰かの役に立ったりよりよい世界を作るために努力することは損得を抜きとして心から大好きです。しかし、その先で自分も解脱したいという利己的な抱きがあるのもまた事実です。 私のしていることは、解脱を目指す上で無駄なのでしょうか? 私の行いで誰かが喜びを味わったり救われたりしているので、それは決して無駄なことではないのは確かなはずです。しかし、やはり達磨大師のおっしゃられたことにも一理あるので、そこがずっと引っかかっているのです。例え自分に得が無くとも、奉仕活動自体は好きなのでそのスタンスは崩さないつもりです。 私はちゃんと正しい方向へ進めているでしょうか? よろしくお願いいたします
2ヶ月ぐらい前に鶴見の総持寺に参拝したのですが、瓦志納の貼紙を拝見し7口奉納致しました。 瓦の意味は分かるのですが、志納とはどういう意味でしょうか?
立川武蔵著書の『最澄と空海』という本の中で、空海の家系が帰化系だと書いてありました。この帰化系というのは、もう少し具体的に国を絞って言うのであれば、どこの国になりますか?中国ですか?それとも朝鮮ですか?もしくはもっと違うオリエンタルの国ですか? この本の中では、最澄がどう言う帰化系日本人なのかは具体的に書いてありましたが、空海に関しては「どこの国の帰化系日本人」なのかは具体的な説明がありませんでした。すごく知りたいです。もしご存知でしたら、具体的な説明を添えてご説明してくださると大変嬉しいです。宜しくお願いします。
おととい、祖母が亡くなりました。 危篤になって病院に駆けつけてから数時間はまだ息があり、少しだけ思い出を話したり今までありがとうという言葉も言えました。 個性的ではありましたが信念を持ち、優しくて料理上手な祖母でした。 亡くなってからもありがとうの言葉は伝えられたのですが、どうしても後ろめたさで言えなかったことがあり、それが今とても心残りです。 祖母は1年半ほど前から認知症が進行し、上手く話が伝わらないことが多くなっていきました。 私はなかなか認知症になってしまった祖母を受け入れられず、何度言っても伝わらない事に苛立って強い言い方をしてしまったり、祖母に会うのを鬱陶しく思ってしまったこともありました。 祖母は認知症でも私の存在は忘れていなかったので、きっと悲しかっただろうと思います。 それを、結局最後までごめんと言えないまま祖母はお骨になってしまいました。 今となって、もっと沢山話してあげればよかった、手を繋いであげれば良かったと思います。 謝るのはもう遅いのかもしれませんが、本当は祖母に感謝してるし大好きです。 どうしたら良いでしょうか?
大金剛輪陀羅尼について教えてください。 大金剛輪陀羅尼を覚えようと思い調べたのですが、 『ジビキャナン サルバ タタギャタナン』 と書いてあったのですが、YouTubeで大金剛輪陀羅尼を唱えているお坊さんの動画を見ると 『ジビキャナン タタギャタナン』 と『サルバ』が抜けてるのですが、どちらが正しいのでしょうか? 『サルバ』は唱えても唱えなくてもどっちでもいいのでしょうか??
お経には観音菩薩とか不動明王とか釈迦以外の仏様がたくさん出てきますが、仏教ではそういう霊的な存在を本当に存在すると教えているのでしょうか? それとも実在しているわけではなくて、仏教の教えを象徴しているだけの架空の存在なのでしょうか?たとえば、不動明王の剣は智慧の象徴とか、座ってる石は固い菩提心の象徴とかいう感じで、仏教の教えを大衆に分かりやすくキャラクター化して説明しているだけで、崇拝の対象ではないのでしょうか。 お経の中ではお釈迦様がいろいろな菩薩や如来を紹介しますが、お釈迦様自身がそういう存在を拝んでいたとか護摩祈祷をしていたとか逸話は聞いたことがないので、不思議に思い質問させていただきました。よろしくお願いします。
こんばんは。お坊様に質問があります。 先週の金曜日に喉の調子が悪かったので、お医者様に診て貰ったらアレルギーの影響だとおっしゃってました。 なので、御薬師様に、アレルギーの症状が無くなる様にとお祈りしたいのですが、問題はないでしょうか?
仏教も各宗派も、成立も発展も、ずいぶん昔からの歴史あるものですので、現代的な価値観と相容れないものもあるかと思います。 良く言われるところでは女性蔑視だとか。障害や病気を因果応報で説明される事だとか。 お坊様たちは、そういう教義と、現代的な価値観とどのように折り合いをつけておられますか? 私自身女性ですので、どのように考えて行けば良いのかわからないところがあります。 「その時代の人にもわかるように説明しただけ、方便」だとか 「解釈が間違っていただけ、仏様の本意ではない」みたいに言うのも、なんか都合が良すぎるような…。 たとえばある経典や説話集などを、全体としては採用し信仰したり説明に用いながら、特定の部分を現代の価値でジャッジして、美味しいところだけをつまみ食いするようなやり方、本当に正しいのかな、と。 お坊様たちはどうお考えですか? 考えるヒントをくだされば幸いです
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