ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」は、心の平和のための教えです。 以下は、反省と後悔について、Gemini(生成AI)の回答です。 「起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)であり、行為者はいないのだから、起きたことについて『自分がどうにかできたはずだ』と悩んだり悔やんだり(クヨクヨ、後悔)するのは道理に合わない。しかし、現実世界で生きていく上で、起こったことから学び、次に活かす(反省する)ことは有益である。」という読み解きが可能です。
最終的には介護施設で働きたいなぁと思ってました。大学も福祉学部にもともとは行こうとしてました。介護施設で普通に働きたいだけです。介護初任者研修を取って働きたいなと思いました。 でもそれはいつでもできるから、(私の祖母は看護師で80歳になっても現役で介護施設で働いてるのですが)そういう働き方もできるからという助言をもとに、好きだった仏像や仏教を突き詰めるために仏教学部に入りました。 研究したい一心で文系の大学院に行くのは間違ってますか?修士の給料は大卒よりも高いです。現在、大学4年生です。大学院に親と友達と先生に薦められているのですが、就職の難しさなどとても渋ってます。学芸員の資格を持っているのでとても倍率が高いのですがそれを目指してチャレンジするか迷ってます。 (親友達先生以外の)周りから院進して無駄なことばっかり研究してるって後ろ指刺されるのも怖いし、最終的に介護職についた時に院進までしてもったいなとか、研究して何になるん無駄やんとか言われるのが怖いです。 最近は文系の研究って本当無駄何やってんの?とか言われます。こういう院進の仕方は間違ってるのでしょうか。 (親友達先生に)みんな全員に院進進められてて私だけがまだ納得しきれてません。
志と執着の違いはなんでしょうか?
良く苦しみは、幸せのプロセス と聞きます 自分自身、今いろいろな事で 悩み苦しみ、死にそうな思いをして もがき苦しんでいます よく自分の心を軽くしようと YouTubeなんかで、仏教や教えの 動画を見たりします そこで、良く言われるのは 苦しみがあるから幸せを感じれる と言う内容です そこで思うのが人間ってめんどくさい 生き物だな と言う事です 楽しい事や幸せな事を長く感じていると 飽きて苦しみたいと思う様になる それを乗り越えた先の幸せが 凄く楽しい、、、 ですが、単純にずっと幸せでも、 ずっと幸せと 思える状態なら、苦しむ必要も無いですよね? ではなぜ反対がある世の中なんでしょうか? あの世は永遠の幸せだと 聞いた事があります 生まれ落ちて修行するのは あの世で、永遠に生きていく 知識をこの世に降りて勉強すると 聞きました 不幸を体験するから人に優しくなれる 強くなると言いますが ずっと皆が幸せなら、そんな事 経験する必要も無いですよね? この考え方は、幸せだけの世界観で 狭く虚しいですか? でも皆が皆しあわせです ですが今僕はとても苦しいです これを乗り越えた先に幸せは あるとは思います 法則を信じているので ただこの法則自体に何かとてつもない 虚しさを感じます 何か教えを考えを頂けたら幸いです よろしくお願いします
この世界に本当に仏様の慈悲があるのなら、どうして世界中の残酷な営みが今も続けられていて、全ての生命の恒久的平和が保証されないのでしょうか。 結局、生き物として生まれてしまった以上は飢餓や戦争、弱肉強食の世界に放り込まれるのが殆どで、私のように平和で衛生的な生活ができるのは一握りです。いつかはこれをお返ししなければならないのは良いのですが、この世界の苦しみを肩代わりするのは恐ろしくて嫌だと思ってしまいます。奪い合いでしか存在を保てない物質世界にもう産まれたくないのですが、世界中の残酷な営みは止まらずこれからもっと加速するだろうことを考えれば考えるほど、この世界には神も仏もおらず、ただこの地球が無くなるまで残酷な営みから逃れられない無限地獄でしかないと感じて苦しくなります。 どうしてお釈迦様はこの世界を肯定できたのでしょうか。人間でなくとも、野生動物の過酷な弱肉強食、遡れば隕石による避け難い絶滅。それなのに生き物はまだ生きることを選んでしまっている。私もまだ、「今死ねば絶対に御浄土に行くことができる」と誘われても少し躊躇してしまいます。だから私は御浄土には行けない。それもまた苦しい。 自分の生活に集中しようとしても、希望を持とうとしても、それが容赦なく砕かれることもあると知っている以上、難しいです。災害や戦争、犯罪によって無慈悲に未来を奪われた人達の中には、私なんかよりもずっと賢くて清らかな人だっていた筈です。安心して生きられるかどうか、命を全うできるかどうかなんてどこに生まれるかの運でしかない。宗教とは、物質的な苦痛に耐えきれない人間が頭の中で作り出したものに過ぎません。私も本当はお浄土の存在を信じたい。けれど「もしお浄土があるのなら、もし本当に神仏の救いがあるのなら、どうして世界は今も残酷なままであり続ける?」と思うと信じることができません。破滅的なものばかりが真実のように思えてしまいます。 私はただ、安心して生きていたい。誰からも傷つけられず、災害や戦争に巻き込まれず、死んだらちゃんと安らかな場所に導かれる。そういう「確固たる」保証が欲しいだけなのです。ですが今の世界では、残酷な中に放り込まれる確率の方が極めて高く、人間の行き詰まり感からしてこれからの世界はより残酷な弱肉強食の世界になるでしょう。次に生まれるときは、ひたすらに残酷な環境の中なのでしょう。
三界から想受滅を経て解脱する際に、五蘊の中の色薀は無色界で消え、想薀・受薀は想受滅で消えますが、残りの行薀と識薀はどうなるのでしょうか? また今後新たに解脱する人が現れることはあるのでしょうか?
不空大可畏明王観世音菩薩様までは知っているのですが、調べても一部のみで詳しい内容が出てきません。仏教から名を消された方なのでしょうか? 陰陽道と関わりあると聞いていますが本当のことはよくわかりません。
地蔵菩薩さまのお姿を紙に判子で押し水に流す印仏作法(地蔵流し)の記事を見つけたのですが、他の仏様(例え聖観音様等)で行っても良いのでしょうか? また、印仏作法を学べる書籍やお寺があればご教授下さい。 宜しくお願い致します。
最近、仏教に興味が湧き、手始めに仏教関連で気になった言葉などを調べています。宗派などの考え方の差異にはまだ触れられてません。 仏教関連の言葉を調べている中で度々目にする「涅槃」と「浄土」、どちらも煩悩から解き放たれた悟りの先のように捉えているのですが、その2つにもそれぞれ種類があって意味が違うという話を耳にしてなんだかわからなくなってきました。涅槃と浄土が意味合い的に少し違うことは何となく理解しているのですが...。 涅槃と浄土にはどういった違いがあるのでしょうか?また、浄土に行くことと解脱するのことはイコールで結ばれないのでしょうか?
イスラム教はキリスト教の派生と思われますので、キリスト教に集約して考えます。 キリスト教の原理は「神との契約を破り、禁断の木の実を食べたアダムとイブ」で、原罪としてエデンの園から地球に追放され、以降我々も同じ罪を犯していると懺悔します。 即ち「生」が罪としています。 釈尊の仏教について金剛般若経の初めの箇所に次のような記述があります。 「右のような逆説に満ちた教えを信ずるものがありえようか」という題で 「スプーティよ、そのように『そもそも将来、のちの世、のちの時代--正しい教えが滅びるようなのちの五百年代ーになったとき、これらの経典のことばがこのように説かれたばあい、それを真実だと理解しうるものがだれかいるでしょうか』などと語ってはならない。(後略)」 この中の「正しい教えが滅びるようなのちの五百年代」と語っている部分から想像すると,釈尊の没後500年後には「正しい教え」が滅びているという未来が「天眼明」によって確認されていることになります。 この滅びた「正しい教え」が何であるか確定しなければなりませんが、滅びる原因が多分「自己否定」だと思われますので、「阿含経」ではないかと思います。 即ち「生」が否定されていますので、キリスト教と同じ原理となります。 三大宗教が共に「生」を罪とするならば、社会的には、現在生きている人間はすべて欲深い「悪人」の集まりです。生きる為には大部分の人が動物の殺生を余儀なくされています。食用は勿論、蚊や蠅迄。 また常識とは逆に人口の減少(少子化)が好ましく、同性婚が奨励されるという珍妙な判断となります。
これまで数々のご相談に親身にご回答頂きありがとうございました。 最近になり「今の自分を受け入れ、ありのままに生きる」ということに興味があります。 仏教にもそれに沿うような教えがあると思い、もし書籍でそうした考え方・心構えを学べるような書籍があればご教示頂けますと幸いです。
仏教を信仰することで、他の宗教に誘われた時に 断れますし、心が強くなって なにかに依存しないようになれるだろうと思います。 人付き合いが苦手で 友達が少ないことと、褒められると舞い上がる性格なので、詐欺師に狙われるのが 心配です。 心細いことが多いので 強い気持ちになりたいです。 お寺の行事は 写経や瞑想などありますが、毎週通って いつもお寺を身近に感じたいのですが、どうしたらいいでしょうか? 家で お経を唱えるだけでなく、仏教に属しているんだと強く思えるには なにをすればいいでしょうか? 回答を よろしくお願いいたします。
すみません気になってしまったのでご相談させてください。 家に仏壇があるということはある意味小さいお寺ですよね。 初詣をするならお寺や神社にいかずに、仏壇に手をあわせればよくないですか? おふだ等を貰う意味も仏壇に本尊が祀ってあるなら、家内安全も商売繁盛もその他諸々も仏壇の本尊にお願いするなら別に必要なくないですか? それとも御祈願を受けることに意味があるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
自分は魂にレベルがあると思ってます。 魂のレベルが低い人は極端な事を言えば殺人などの凶悪な事件を引き起こしてしまう可能性がある。 そんな人間が例えば凶悪な事件を起こさずに我慢して人生を終えたらそれは偉業レベルの評価を神仏からされると私は考えています。 俗に言う徳の高い人間になる訳です。 つまり魂のレベルによって徳の積み方は人それぞれ違うという事を私は言いたいのです。 魂のレベルは何十年も生きていれば自分の事なので何となく分かります。 そこで漸く自分が何をする事で徳を積むか理解する事になります。 取り敢えず、分かりやすい例を出しとくと赤ん坊が物を掴まずに立ったとします。 周りがそれを凄いと評価します。 ですが大人が普通に立っててもだから何?ってなります。 評価は魂のレベルによって違うというのはこれと全く同じです。 人生において成長する事は身長が伸びたり、賢くなったりするという意味では殆どの場合、普遍的です。 ですが魂のレベルに限っては全く成長しない人もいるし逆に評価を下げる恐れもあります。 魂のレベルが高い人がニュースで取り上げられる程のスーパースターになったからといっても人間界では評価されても神仏から見ると評価されないなんて事もあると私は考えます。 一概に良い人だから徳が高いと言う訳ではないのです。 前置きが長くなりました。 かくいう私はというと魂のレベルが低いです。 勉強も駄目、スポーツも駄目、社会に出ても使い物にならないし転職ばかり、友達0、恋人0と負のステータスがこんなにも高い訳です。 魂のレベルが高い人は友達が0って事は先ずないし、ましてや恋人が0(今まで居たことがない)という事は考えにくい。 魂のレベルが極端に低いと見た目にも表れます。 この前なんか何もしてないのに警察官から職務質問されました。 魂のレベルが高い人が職務質問なんかされません。 正直、軽い自暴自棄になりながらこの文章を打ってます。 こんな生活をしてるうちに長々と述べた理論に至りました。 私は一般社会から見たらヤバい奴ですが、神仏から見たら今も徳を積みまくってる訳です。
大乗仏教の救いについて教えてください。 大乗仏教では出家者ではなくとも、救われるとの教えだと学びました。 では大乗仏教の救いとはなんでしょうか。 出家をしないで煩悩が消せるとは思えません。 人間はいつも何か欲しいと思ったり、仕事に不満を感じていたり、何かしらの煩悩を持っていますよね。 煩悩を持ったままでも悟れるのでしょうか。 大乗仏教の悟りとは煩悩がなくなることではないのでしょうか。
自分は今の生活に満足してます。 ですがもう一度人生を送りたいかというと正直微妙な感じです。 人生辛い事もあるし楽な事ばかりもしてられない寧ろ楽な方ばかりに行っても結局そのつけが回ってくるし結局大変なのが人生です。 ですが極楽浄土に至っては私の想像だと永久に幸せな時が流れてるイメージがあり何としても極楽浄土に行きたい願望があります。 自分が死んだら阿弥陀如来様に救われて極楽浄土に行きたいです。 そうすれば生物の苦しみを味わう事なく永久の幸せを手に入れられます。 ですが果たして自分は極楽浄土に行けるのか不安です。 本願誇りと言って全員が救われる訳ではない事を知りました。 それで自分も本願誇りではないかと思い始めました。 飛んでる虫は平気で殺します。 例えば蚊、ゴキブリなど、、。 自分は命は皆平等だと言う事を知ってます。 例に出した虫も好きでその姿で産まれてきてる訳じゃないのに、必死に生きてる命を気持ち悪いから、害があるからという理由で殺してしまいます。 その背景の一つに阿弥陀如来様に救って貰えるから大丈夫という過信をしてました。 殺してしまった虫達はもう戻って来ない。 それに加えて本願に全てを委ねてるとしてたならば自分は救われないでしょうか? 救われない私はどうすれば良いでしょうか? 地獄に堕ちる、苦しい世界に堕ちる事に観念して毎日怯えて贖罪の日々を過ごすしかないでしょうか?
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
ご神仏はおられますか? 一般人に聞くのではなく 仏道に入られて仏教を勉強された お坊さんの率直なお答えを聞きたいです。信じるか信じられないかはあなた次第です…みたいなことを よく言われるのですが… 私の気持ではなく お坊さん自身のお考えを 聞きたいです。 よろしくお願い致します。
こんにちは。以前も二度ほど質問させていただいたものです。 まずは自分の状況についてお話いたします。 自分は重度の身体障害者でトランス男性(肉体:女性/心:男性)です。4ヶ月近く前に母が一緒に住んでた家で自死しました。 母が亡くなった当初より、絶望感は薄れましたが、それでも自分が母を追い詰めたんじゃなかろうかとか、唯一と言っても過言ではないほど心の支えだった母を失ったことに対する喪失感。自分の心と体の性の不一致に関する葛藤。健常者よりも人の手を借りなければ生きていけない現実。 いろんなものに押しつぶされそうで、なかなか気持ちが厳しいです。そこで、すがるものが欲しいです。 新興宗教は玉石混交な感じがするし、俗に言う"アブラハムの宗教"はLGBTQ+に厳しいと聞きましたし、神道もどちらかといえば日本の伝統的で保守的な価値観を大切にしていると聞きました。 ならば、身近な仏教かと思いましたが、体が不自由ゆえ、望むところに行くのにも一苦労でお坊さんの説法を聞きにいくなどのことはなかなかできません。 信徒や門徒になろうにも財施もする余裕がありません。 こんなんでは信仰心があるとはやはり認められませんか? また、なるべくお金をかけずに仏教の宗派や考え方を学ぶ方法はありませんか? 長い文章で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。 いつもお世話になっております。 先日、約2週間ほどタイとマレーシアに行ってきました。人生初の海外旅行です。渡航前にトラブルもありましたが、無事に体調も崩すことがなく日本に帰国することが出来ました。 タイに行った際、いろんな有名な寺院や博物館などに行き、お釈迦様の人生を学んだり、出家や悟りについて勉強したりしました。ある有名な寺院に行き、エメラルドグリーンに広がる屋根を見ながら坐禅を組んで眺めていました。すると、不思議と心のモヤモヤや悩みが一気に吸い込まれているようで、気づけばずっとボーッとしていました。 悩みとかがなぜかちっぽけに思えて、健康がどれだけ素晴らしいものか過去のことを思い出しました。昨年大怪我をしてしまい、毎日辛く、後悔と健康体ではない自分の体に苛立ちを感じました。でもまだ跡はあるけれど少しずつ治ってきた自分の体を見て、治る力があるということ、辛くても乗り越えることができたこと、この力があるっていうことは、怪我は健康状態でなくても、あるいみ私自身の体や心は健康だったのではないかと、坐禅を組みながら感じました。こんな気持ちになったのも初めてで、正直タイに行って、仏教に触れる度、不思議な気持ちになるというか、変な言い方になりますが、お釈迦様はいらっしゃるんだな、仏様は本当にいらっしゃるんだなと強く感じる場面が多くありました。その度にパワーをいただいたというか、僧侶の方にもご祈祷していただき、それ以来、気持ちが変わったといいますか、長旅で心も体も疲れているはずだけど、生きる力がたくさん漲った感じがします。この瞬間が本当に幸せに思え、旅行中何度も思いました。人生、様々なことがあるけれど、この旅行先での最高の幸せに出会うための備えって、健康であることなんだなと何度も感じました。 日本に帰国したあと、待っていたのは人間関係の悩み。生きる力は未だにたくさん漲り、むしろ挑戦したいことばかりでうずうずしています。だけど、友達に気を使うことが辛くて、朝も辛いなと呟きながら出発しました。 明日も会わなきゃ、大丈夫かな、何かあったのかな、ちゃんと話の輪に入れてるかな、常にある友達といると思います。 1人になると、なんでこんなこと思わなきゃいけないんだと我に返ってしんどいな、辛いなと嘆くばかりです。 こういうとき、どのような心構えで過ごしていけば良いのかと思います。