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「仏教全般」問答(Q&A)一覧

2025/08/09回答受付中

心の中にいる仏様?

初めて相談させていただきます。 私は物心ついた時には絵を描き、自分で名前をつけ、その子の服装や出自などの設定を加えていきお話を作るという創作を趣味としているものです。 長年の趣味ですから作り出したキャラクターは数知れず、使われなかったキャラ、途中で飽きて放り出してしまった物語などは数え切れません。 そして創作やキャラの傾向も年々変わります。当たり前ですが中学生であれば中学生が考えたようなキャラが出来上がり、高校生になれば高校生が考えたようなキャラクターが出来上がるのです。 しかし、不思議な事に1人のキャラクターだけは例外でした。彼女は名前は変わらずに必ず私の作品の何処かにひょっこりと現れるのです。彼女の設定を変えた事はありますが、名前を変えた事はありません。私が創作活動から離れても再び戻ってくると彼女の存在があります。必ず私の元に現れるのです。 私は彼女になにかして欲しいという気持ちはありません。恋愛的な好きとも違い、友達としての好きと似ていますが、何か別な気もします。ただそこに居て欲しいと願うばかりです。彼女が居てくれるという事実に涙を流すほどです。創作を長く続けてこんなに愛したキャラクターは彼女一人だけです。 正直自分でも不思議に思うのです。実在している人物ならまだ分かるのですが、自分が作り出したオリジナルキャラクターに対してここまでの感情を持ってしまう事にです。 こういった現象になにか名前などはつくのでしょうか? それだけ知りたいです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 7
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2025/08/02

仏教とスピリチュアルの違いを聞かれたら

 お世話になっております。  先日、お寺の帰りにタクシーに 乗ったら、運転士からヘイト スピーチされました。 否定的・悪質な偏見をたくさん 言われ傷つきました。  結果的に営業所に苦情を 言って、運賃を返してもらい ました。担当の方いわく 「本人、思わず口が滑った と猛省してました」 とのことでした。  また、私の好きな科学作家の 先生が 「スピリチュアルに取り組むのに 幸せになれないのは、スピリ チュアルをやめないからだ」 と言っていました。  ここハスノハでも、 「仏教はスピリチュアルとは 一線を画すもの」 と説明してくださるお坊さんも いらっしゃるのを見たことが あります。  しかし気になったのが、 「祈りの要素も強い仏教と スピリチュアルの違いは何か」 と聞かれた時に、どう答えを 出せばいいのかということ です。 「ほら、同じじゃないの」 「宗教は怖いわ」 と笑われたくないのです。  私は本当に、スピリチュアルと 仏教(宗教)を一緒にされたく ありません。  私の印象では、スピリチュアル は祈ってさえいれば叶う、と説く。 占いや予言などの根拠のないことを もっともらしく言う。  仏教(宗教)は、「気の持ち よう」を具体的に説いてくれて、 祈りはその助剤。  と解釈しています。  私は本当にスピリチュアルと 仏教・宗教を一緒にされたく ありません。  いっとき、先ほどの科学の 先生は、 「神の存在を本気で信じている 人はニセ科学にはまる」 とまで言い切っていました。 (のちのち、神社の篤信の先生や ウラマーの先生がお仕事仲間に なりましたが)  スピリチュアルと仏教・宗教の 違いはなんだと思えばいいでしょう か?

有り難し有り難し 22
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2025/07/26

聖天さま、ダキニ天の願いの叶えかた

私は引きこもりです。体調がわるくて病院にいきたいのですが白い目でみられるのが怖くて恐怖感が強くて行けません。最近聖天さま(大聖歓喜双身天)とダキニ天のことを知りました。1聖天さま、もしくはダキニ天に引きこもりから脱出させて欲しいと願ったら聖天さま、もしくはダキニ天は願い事を叶えるとき崖から蹴落とすような厳しい父親的な叶いかたになりますか?(家から追い出され強制的に引きこもりから抜け出させる)それとも安全に地面に着地できるような優しい叶いかたになりますか?(私が恐怖を感じないような形)聖天さまは厳しい、スパルタな神様と調べたら書いてあったので。できたら祈祷ができるお坊さんからの回答希望。2聖天さま、もしくはダキニ天を信仰して死後極楽浄土にいきたいから途中で念仏して阿弥陀に信仰を変えたら聖天さま、もしくはダキニ天は嫉妬して怒り祟られますか?3聖天信仰、もしくはダキニ天信仰は一生続けなければならないと知りましたが途中でやめたら祟られますか?4聖天信仰もしくはダキニ天信仰し続けて死んだら死後どこにいきますか?極楽浄土にはいけませんか?5聖天さまは叶えるとき悪行、悪因縁を先にカルマの浄化してから叶えるから最初に嫌なことが次々と起きると本で見たことがあるようなきがするのですがこれは本当ですか?引きこもりに対しての悩み的な助言はいりません。

有り難し有り難し 4
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2025/06/20

スターデイリーのように

スターデイリーのようにキリストに愛の眼差しを受け生まれ変わった方がいる、天使に会い病気の治った人がいる。一方真逆の方もいる。個人個人差があるのはなぜか?お寺にはよくネコがいます。ネコは魔を追い払うのか?うちのニャーは可愛いくて追っ払らわないみたい。私はお化けをみるので。閉塞感閉塞感狭い閉塞感は社会に染みついてる。笑顔をむけて笑顔をむけてまず笑顔をむけてみて、一人から私から楽になろう。眠れない夜中はお坊さんはお経をあげますか?ほんとの朝は4時でしょうか?。私にとって母は天女父はお地蔵様です。幸せは素直に今の環境を受け入れて喜ぶことだと思います。振り返るとできてなかった。今もそんな私もまっいっかとそうしないと歩けない。自分の足下は見えにくい。ネコは膝に乗ってきて可愛い。自分にしてほしくないことを人にするな。戦争始めなくてよいです。習った事がないのがな。痛々しいのをニュース当たり前に流れている観点がズレてます。利益損得は度外視して痛みを分かち合いましょうよ。同じ人間でしょ。どうしたの?私もフラットにいれるときもあり、いれないときもありますね。フラットにいれないときに安心して任せることはなかなかないです。こないだコンビニに行って買い物をするときレジの方がぜんぶしてくれた。ブツブツ言われていたのに愛で支え受けてくれたと思いました。そんなこんなのまいにちです。いまの文章明るい。いまフラットになってる証拠。福祉仏教に助けられると思います。ネコちゃん犬たちもありがとうね(=^_^=)🐺。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1
2025/06/08

仏教は少子化を止める?静観する?

仏教にとって、急速に進む少子化は悪なのでしょうか? 仏教に「産めよ増やせよ」の概念は基本的になく、悟りによるこの世からの卒業を目指す宗教だと思います。 そもそも社会から隔絶して悟りを目指す 集団が仏教のオリジンでもあり、その後世俗化やらが進んでからも、浄土真宗以外の僧侶は独身が基本という建前(崩壊してますが)もあるはずです。 如来や菩薩がこの世に戻ってくるのも、まだ救うべき衆生(一般ピーポー)が残っているからという理屈ですよね?救出すべき対象がいなくなれば、救急隊員は現場から引き揚げるし、それを心から望んでいるはずだす。 このあたりの矛盾に真摯に答えている回答がネット上に見つかりませんでした。いかに寺の収入を維持するか?しか頭にない方が大半に見えます。 人々のために寺があるのか?寺のために人々が利用されてるのか?どちらなのでしょうか? このままなら確実に日本人口は縮小するし、外国人が増えて仏教自体も駆逐される可能性が高いです。 こうした状況を踏まえ、仏教が本来取るべきスタンスはどんなものか?ぜひお教えください。 個人的には、少子化は必然として放置で良く、国と同じように宗教組織もダウンサイジングすれば良いと思っています。仏教はそれに抵抗すべきではない、という考えです。 ごまかしのない回答には御礼をお支払いします。

有り難し有り難し 16
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2025/05/27

涅槃や成仏など本当にあるのでしょうか

今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。

有り難し有り難し 28
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2025/05/01

仏教を学ぶこと

最終的には介護施設で働きたいなぁと思ってました。大学も福祉学部にもともとは行こうとしてました。介護施設で普通に働きたいだけです。介護初任者研修を取って働きたいなと思いました。 でもそれはいつでもできるから、(私の祖母は看護師で80歳になっても現役で介護施設で働いてるのですが)そういう働き方もできるからという助言をもとに、好きだった仏像や仏教を突き詰めるために仏教学部に入りました。 研究したい一心で文系の大学院に行くのは間違ってますか?修士の給料は大卒よりも高いです。現在、大学4年生です。大学院に親と友達と先生に薦められているのですが、就職の難しさなどとても渋ってます。学芸員の資格を持っているのでとても倍率が高いのですがそれを目指してチャレンジするか迷ってます。 (親友達先生以外の)周りから院進して無駄なことばっかり研究してるって後ろ指刺されるのも怖いし、最終的に介護職についた時に院進までしてもったいなとか、研究して何になるん無駄やんとか言われるのが怖いです。 最近は文系の研究って本当無駄何やってんの?とか言われます。こういう院進の仕方は間違ってるのでしょうか。 (親友達先生に)みんな全員に院進進められてて私だけがまだ納得しきれてません。

有り難し有り難し 16
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2025/03/15

人は何故苦しみが無いと幸せになれない?

良く苦しみは、幸せのプロセス と聞きます 自分自身、今いろいろな事で 悩み苦しみ、死にそうな思いをして もがき苦しんでいます よく自分の心を軽くしようと YouTubeなんかで、仏教や教えの 動画を見たりします そこで、良く言われるのは 苦しみがあるから幸せを感じれる と言う内容です そこで思うのが人間ってめんどくさい 生き物だな と言う事です 楽しい事や幸せな事を長く感じていると 飽きて苦しみたいと思う様になる それを乗り越えた先の幸せが 凄く楽しい、、、 ですが、単純にずっと幸せでも、 ずっと幸せと 思える状態なら、苦しむ必要も無いですよね? ではなぜ反対がある世の中なんでしょうか? あの世は永遠の幸せだと 聞いた事があります 生まれ落ちて修行するのは あの世で、永遠に生きていく 知識をこの世に降りて勉強すると 聞きました 不幸を体験するから人に優しくなれる 強くなると言いますが ずっと皆が幸せなら、そんな事 経験する必要も無いですよね? この考え方は、幸せだけの世界観で 狭く虚しいですか? でも皆が皆しあわせです ですが今僕はとても苦しいです これを乗り越えた先に幸せは あるとは思います 法則を信じているので ただこの法則自体に何かとてつもない 虚しさを感じます 何か教えを考えを頂けたら幸いです よろしくお願いします

有り難し有り難し 15
回答数回答 3
2025/03/15

この世界の残酷さが苦しい

この世界に本当に仏様の慈悲があるのなら、どうして世界中の残酷な営みが今も続けられていて、全ての生命の恒久的平和が保証されないのでしょうか。 結局、生き物として生まれてしまった以上は飢餓や戦争、弱肉強食の世界に放り込まれるのが殆どで、私のように平和で衛生的な生活ができるのは一握りです。いつかはこれをお返ししなければならないのは良いのですが、この世界の苦しみを肩代わりするのは恐ろしくて嫌だと思ってしまいます。奪い合いでしか存在を保てない物質世界にもう産まれたくないのですが、世界中の残酷な営みは止まらずこれからもっと加速するだろうことを考えれば考えるほど、この世界には神も仏もおらず、ただこの地球が無くなるまで残酷な営みから逃れられない無限地獄でしかないと感じて苦しくなります。 どうしてお釈迦様はこの世界を肯定できたのでしょうか。人間でなくとも、野生動物の過酷な弱肉強食、遡れば隕石による避け難い絶滅。それなのに生き物はまだ生きることを選んでしまっている。私もまだ、「今死ねば絶対に御浄土に行くことができる」と誘われても少し躊躇してしまいます。だから私は御浄土には行けない。それもまた苦しい。 自分の生活に集中しようとしても、希望を持とうとしても、それが容赦なく砕かれることもあると知っている以上、難しいです。災害や戦争、犯罪によって無慈悲に未来を奪われた人達の中には、私なんかよりもずっと賢くて清らかな人だっていた筈です。安心して生きられるかどうか、命を全うできるかどうかなんてどこに生まれるかの運でしかない。宗教とは、物質的な苦痛に耐えきれない人間が頭の中で作り出したものに過ぎません。私も本当はお浄土の存在を信じたい。けれど「もしお浄土があるのなら、もし本当に神仏の救いがあるのなら、どうして世界は今も残酷なままであり続ける?」と思うと信じることができません。破滅的なものばかりが真実のように思えてしまいます。 私はただ、安心して生きていたい。誰からも傷つけられず、災害や戦争に巻き込まれず、死んだらちゃんと安らかな場所に導かれる。そういう「確固たる」保証が欲しいだけなのです。ですが今の世界では、残酷な中に放り込まれる確率の方が極めて高く、人間の行き詰まり感からしてこれからの世界はより残酷な弱肉強食の世界になるでしょう。次に生まれるときは、ひたすらに残酷な環境の中なのでしょう。

有り難し有り難し 25
回答数回答 2