最近、仏教を勉強しているのですが、四念住における身念住がよく分かりません。 「体が不浄である事を観察する」という解説をよく見るのですが、そのままの意味で「体が汚い」と理解すればよろしいのでしょうか?もし、そうであるならば、何故その様に観察しなければならないのでしょうか? ご教授いただければ幸いです。
スターデイリーのようにキリストに愛の眼差しを受け生まれ変わった方がいる、天使に会い病気の治った人がいる。一方真逆の方もいる。個人個人差があるのはなぜか?お寺にはよくネコがいます。ネコは魔を追い払うのか?うちのニャーは可愛いくて追っ払らわないみたい。私はお化けをみるので。閉塞感閉塞感狭い閉塞感は社会に染みついてる。笑顔をむけて笑顔をむけてまず笑顔をむけてみて、一人から私から楽になろう。眠れない夜中はお坊さんはお経をあげますか?ほんとの朝は4時でしょうか?。私にとって母は天女父はお地蔵様です。幸せは素直に今の環境を受け入れて喜ぶことだと思います。振り返るとできてなかった。今もそんな私もまっいっかとそうしないと歩けない。自分の足下は見えにくい。ネコは膝に乗ってきて可愛い。自分にしてほしくないことを人にするな。戦争始めなくてよいです。習った事がないのがな。痛々しいのをニュース当たり前に流れている観点がズレてます。利益損得は度外視して痛みを分かち合いましょうよ。同じ人間でしょ。どうしたの?私もフラットにいれるときもあり、いれないときもありますね。フラットにいれないときに安心して任せることはなかなかないです。こないだコンビニに行って買い物をするときレジの方がぜんぶしてくれた。ブツブツ言われていたのに愛で支え受けてくれたと思いました。そんなこんなのまいにちです。いまの文章明るい。いまフラットになってる証拠。福祉仏教に助けられると思います。ネコちゃん犬たちもありがとうね(=^_^=)🐺。
宗教の創始者もしくは教えに否定されたらこれから生きていくには皆様ならどうすると思いますか?神様は霊なんでしょうか?分かりにくくてごめんなさい。
仏教にとって、急速に進む少子化は悪なのでしょうか? 仏教に「産めよ増やせよ」の概念は基本的になく、悟りによるこの世からの卒業を目指す宗教だと思います。 そもそも社会から隔絶して悟りを目指す 集団が仏教のオリジンでもあり、その後世俗化やらが進んでからも、浄土真宗以外の僧侶は独身が基本という建前(崩壊してますが)もあるはずです。 如来や菩薩がこの世に戻ってくるのも、まだ救うべき衆生(一般ピーポー)が残っているからという理屈ですよね?救出すべき対象がいなくなれば、救急隊員は現場から引き揚げるし、それを心から望んでいるはずだす。 このあたりの矛盾に真摯に答えている回答がネット上に見つかりませんでした。いかに寺の収入を維持するか?しか頭にない方が大半に見えます。 人々のために寺があるのか?寺のために人々が利用されてるのか?どちらなのでしょうか? このままなら確実に日本人口は縮小するし、外国人が増えて仏教自体も駆逐される可能性が高いです。 こうした状況を踏まえ、仏教が本来取るべきスタンスはどんなものか?ぜひお教えください。 個人的には、少子化は必然として放置で良く、国と同じように宗教組織もダウンサイジングすれば良いと思っています。仏教はそれに抵抗すべきではない、という考えです。 ごまかしのない回答には御礼をお支払いします。
今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。
私は今、独学で仏教の勉強をしています。 仏教を深く知るにはまず、仏教の教えの内容含め、その思想が生まれた背景と、変遷を知るのが良いだろうと考え、現在私は仏教史を勉強しています。 そして今現在、仏教が生まれた古代インドの世界の理解に非常に難航しています。 インド哲学に馴染みがなかったのに加えて、大量のカタカナと抽象的な語句が大量に出てくるので、混乱してしまっているのです。 古代インド世界とインド哲学を知れば、釈迦がどのような状況で、どのような経緯と意図で教えを説いたのか、正確に知ることができると考えたのですが、もう既にリタイアしそうです。 お坊様方は皆どのように勉強なさったのでしょうか。 仏教を理解するには、どのように勉強すれば良いでしょうか。 ちなみに、勉強で用いている本は「新アジア仏教史」です。 そして、今現在の私の仏教の知識の度合いは、大まかな基礎を知っている程度です。 よろしくお願いいたします。
久しぶりに投稿します。 いつも通勤の時に、田んぼの脇から地域が見えるような形で立っている、身長130cmくらいのお地蔵さんの前を通っています。 お地蔵さんは誰かが親しみを込めているのか、あるいは地域の方の集まりで作っているのか、手作りの帽子を季節ごとにかぶっています。 特に嫌な感じもしないので、朝気がついた時に、車ですれ違いながら「おはようございます、今日も見守っていてください」と簡単に挨拶して通勤しています。 ただ、インターネットを見ていて、道端のお地蔵さんには手を合わせてはいけない、というような記事を読んでしまい、特別何が起こったわけではないのになんだか怖くなってしまいました。 お地蔵さんに挨拶をするのは悪手なのでしょうか?
こんにちは。 仏教に関してちょっとした疑問があります。 お寺さんや宗派によって決まり?ルール?教義が違うと思いますが、教えてもらえたらありがたいです。 1. 食事と不殺生 お寺では建前上、肉魚を食べない精進料理だと思いますが、食と不殺生を考えた場合、下記の場合はどう考えるべきなのか教えていただけたら幸いです。 頂いたものや出されたものとしての肉魚に関しては美味しく頂くのは分かるのですが、不殺生を考えると生きてる牛や鶏、魚などを絞めて食べるのはNG? 魚釣りで釣れた魚を食すのも不殺生に引っかかるからNG? 生きてる生き物を絞めるのはダメだけど、誰かに絞めてもらったものや店で売ってるものを食べるのはOK? 2. 各宗派の大まかな教義はネットや本で調べたら分かりますが、一歩踏み込んだ部分を学びたいと思った時、どういう方法を取るのが一番良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。
救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。 具体例 これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか? 中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。 仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。
ラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」は、心の平和のための教えです。 以下は、反省と後悔について、Gemini(生成AI)の回答です。 「起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)であり、行為者はいないのだから、起きたことについて『自分がどうにかできたはずだ』と悩んだり悔やんだり(クヨクヨ、後悔)するのは道理に合わない。しかし、現実世界で生きていく上で、起こったことから学び、次に活かす(反省する)ことは有益である。」という読み解きが可能です。
最終的には介護施設で働きたいなぁと思ってました。大学も福祉学部にもともとは行こうとしてました。介護施設で普通に働きたいだけです。介護初任者研修を取って働きたいなと思いました。 でもそれはいつでもできるから、(私の祖母は看護師で80歳になっても現役で介護施設で働いてるのですが)そういう働き方もできるからという助言をもとに、好きだった仏像や仏教を突き詰めるために仏教学部に入りました。 研究したい一心で文系の大学院に行くのは間違ってますか?修士の給料は大卒よりも高いです。現在、大学4年生です。大学院に親と友達と先生に薦められているのですが、就職の難しさなどとても渋ってます。学芸員の資格を持っているのでとても倍率が高いのですがそれを目指してチャレンジするか迷ってます。 (親友達先生以外の)周りから院進して無駄なことばっかり研究してるって後ろ指刺されるのも怖いし、最終的に介護職についた時に院進までしてもったいなとか、研究して何になるん無駄やんとか言われるのが怖いです。 最近は文系の研究って本当無駄何やってんの?とか言われます。こういう院進の仕方は間違ってるのでしょうか。 (親友達先生に)みんな全員に院進進められてて私だけがまだ納得しきれてません。
志と執着の違いはなんでしょうか?
良く苦しみは、幸せのプロセス と聞きます 自分自身、今いろいろな事で 悩み苦しみ、死にそうな思いをして もがき苦しんでいます よく自分の心を軽くしようと YouTubeなんかで、仏教や教えの 動画を見たりします そこで、良く言われるのは 苦しみがあるから幸せを感じれる と言う内容です そこで思うのが人間ってめんどくさい 生き物だな と言う事です 楽しい事や幸せな事を長く感じていると 飽きて苦しみたいと思う様になる それを乗り越えた先の幸せが 凄く楽しい、、、 ですが、単純にずっと幸せでも、 ずっと幸せと 思える状態なら、苦しむ必要も無いですよね? ではなぜ反対がある世の中なんでしょうか? あの世は永遠の幸せだと 聞いた事があります 生まれ落ちて修行するのは あの世で、永遠に生きていく 知識をこの世に降りて勉強すると 聞きました 不幸を体験するから人に優しくなれる 強くなると言いますが ずっと皆が幸せなら、そんな事 経験する必要も無いですよね? この考え方は、幸せだけの世界観で 狭く虚しいですか? でも皆が皆しあわせです ですが今僕はとても苦しいです これを乗り越えた先に幸せは あるとは思います 法則を信じているので ただこの法則自体に何かとてつもない 虚しさを感じます 何か教えを考えを頂けたら幸いです よろしくお願いします
この世界に本当に仏様の慈悲があるのなら、どうして世界中の残酷な営みが今も続けられていて、全ての生命の恒久的平和が保証されないのでしょうか。 結局、生き物として生まれてしまった以上は飢餓や戦争、弱肉強食の世界に放り込まれるのが殆どで、私のように平和で衛生的な生活ができるのは一握りです。いつかはこれをお返ししなければならないのは良いのですが、この世界の苦しみを肩代わりするのは恐ろしくて嫌だと思ってしまいます。奪い合いでしか存在を保てない物質世界にもう産まれたくないのですが、世界中の残酷な営みは止まらずこれからもっと加速するだろうことを考えれば考えるほど、この世界には神も仏もおらず、ただこの地球が無くなるまで残酷な営みから逃れられない無限地獄でしかないと感じて苦しくなります。 どうしてお釈迦様はこの世界を肯定できたのでしょうか。人間でなくとも、野生動物の過酷な弱肉強食、遡れば隕石による避け難い絶滅。それなのに生き物はまだ生きることを選んでしまっている。私もまだ、「今死ねば絶対に御浄土に行くことができる」と誘われても少し躊躇してしまいます。だから私は御浄土には行けない。それもまた苦しい。 自分の生活に集中しようとしても、希望を持とうとしても、それが容赦なく砕かれることもあると知っている以上、難しいです。災害や戦争、犯罪によって無慈悲に未来を奪われた人達の中には、私なんかよりもずっと賢くて清らかな人だっていた筈です。安心して生きられるかどうか、命を全うできるかどうかなんてどこに生まれるかの運でしかない。宗教とは、物質的な苦痛に耐えきれない人間が頭の中で作り出したものに過ぎません。私も本当はお浄土の存在を信じたい。けれど「もしお浄土があるのなら、もし本当に神仏の救いがあるのなら、どうして世界は今も残酷なままであり続ける?」と思うと信じることができません。破滅的なものばかりが真実のように思えてしまいます。 私はただ、安心して生きていたい。誰からも傷つけられず、災害や戦争に巻き込まれず、死んだらちゃんと安らかな場所に導かれる。そういう「確固たる」保証が欲しいだけなのです。ですが今の世界では、残酷な中に放り込まれる確率の方が極めて高く、人間の行き詰まり感からしてこれからの世界はより残酷な弱肉強食の世界になるでしょう。次に生まれるときは、ひたすらに残酷な環境の中なのでしょう。
三界から想受滅を経て解脱する際に、五蘊の中の色薀は無色界で消え、想薀・受薀は想受滅で消えますが、残りの行薀と識薀はどうなるのでしょうか? また今後新たに解脱する人が現れることはあるのでしょうか?
不空大可畏明王観世音菩薩様までは知っているのですが、調べても一部のみで詳しい内容が出てきません。仏教から名を消された方なのでしょうか? 陰陽道と関わりあると聞いていますが本当のことはよくわかりません。
地蔵菩薩さまのお姿を紙に判子で押し水に流す印仏作法(地蔵流し)の記事を見つけたのですが、他の仏様(例え聖観音様等)で行っても良いのでしょうか? また、印仏作法を学べる書籍やお寺があればご教授下さい。 宜しくお願い致します。
最近、仏教に興味が湧き、手始めに仏教関連で気になった言葉などを調べています。宗派などの考え方の差異にはまだ触れられてません。 仏教関連の言葉を調べている中で度々目にする「涅槃」と「浄土」、どちらも煩悩から解き放たれた悟りの先のように捉えているのですが、その2つにもそれぞれ種類があって意味が違うという話を耳にしてなんだかわからなくなってきました。涅槃と浄土が意味合い的に少し違うことは何となく理解しているのですが...。 涅槃と浄土にはどういった違いがあるのでしょうか?また、浄土に行くことと解脱するのことはイコールで結ばれないのでしょうか?
イスラム教はキリスト教の派生と思われますので、キリスト教に集約して考えます。 キリスト教の原理は「神との契約を破り、禁断の木の実を食べたアダムとイブ」で、原罪としてエデンの園から地球に追放され、以降我々も同じ罪を犯していると懺悔します。 即ち「生」が罪としています。 釈尊の仏教について金剛般若経の初めの箇所に次のような記述があります。 「右のような逆説に満ちた教えを信ずるものがありえようか」という題で 「スプーティよ、そのように『そもそも将来、のちの世、のちの時代--正しい教えが滅びるようなのちの五百年代ーになったとき、これらの経典のことばがこのように説かれたばあい、それを真実だと理解しうるものがだれかいるでしょうか』などと語ってはならない。(後略)」 この中の「正しい教えが滅びるようなのちの五百年代」と語っている部分から想像すると,釈尊の没後500年後には「正しい教え」が滅びているという未来が「天眼明」によって確認されていることになります。 この滅びた「正しい教え」が何であるか確定しなければなりませんが、滅びる原因が多分「自己否定」だと思われますので、「阿含経」ではないかと思います。 即ち「生」が否定されていますので、キリスト教と同じ原理となります。 三大宗教が共に「生」を罪とするならば、社会的には、現在生きている人間はすべて欲深い「悪人」の集まりです。生きる為には大部分の人が動物の殺生を余儀なくされています。食用は勿論、蚊や蠅迄。 また常識とは逆に人口の減少(少子化)が好ましく、同性婚が奨励されるという珍妙な判断となります。
これまで数々のご相談に親身にご回答頂きありがとうございました。 最近になり「今の自分を受け入れ、ありのままに生きる」ということに興味があります。 仏教にもそれに沿うような教えがあると思い、もし書籍でそうした考え方・心構えを学べるような書籍があればご教示頂けますと幸いです。