苦しみに意味付けができません
人生に無駄はないのでしょうか。
自分が今まで感じてきたつらさや苦しみについて、その全てが糧として回収されているとは到底思えません。5年前の自分に対しても、「そこで死んどきゃよかったのに」と毎日思ってます。同じように、5年後の自分からも「死ね!」と念じられているような気がしてたまりません。苦しみに意味を見出すことができなくて首をくくってみるけれど、踏み切らなかったり解いたりなどして毎晩、情けない生き残り方をしています。
成長できるって期待も恐ろしくてできません。自分の抱えている負の感情がどうせ無駄なものとしてしか受け取れなくて、でもそればかりしか感じられなくて毎日苦しいです。これを脱する日がないって分かれば心置きなく死ねるのに、執着が捨てられないのは愚かでしょうか。
自分に甘い
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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苦しみを滅する道
追記・・仏教はご想像なさられておられるように難しいものではなく、四つの聖なる真理である四聖諦を基本として成り立っております。
苦、集、滅、道。この四項目について理解して押さえることができたら、あとのお教えはその派生といってしまえば、そうなります。
四聖諦から是非、学ばれて頂けましたらと存じます。
ゆきさま
仏教では、「空」を説きます。
「空」とはごく簡単に申せば、一切のモノ・コトには「実体が無い」ということであります。もう少し申せば、そのものをそのもの足らしめているような本質的な実体は無いというものとなります。
一切のモノ・コトには、私たちの苦しみや楽しみも当然に含まれます。
苦しみにも実体は無いのです。そのため、苦しみを無くそう、無くそうと思っても、その実体が無いものですから、無くすためにまずその実体を探そうと躍起になっても見つからないため、いつまでも彷徨い迷ったままになってしまうのであります。
では、苦しみや楽しみは無いのか、錯覚なのか、と言えばそうではなく、全く無いわけではありません。
確かにあるにはあります。しかし、実体があるかのように囚われたものとしてではなく、因縁(原因と条件)によって、一応のところ現れてあると言えているに過ぎないものと考えます。
つまり、因縁によって変わっていくものということになります。苦しみも楽しみも。
ですから、因縁次第になるというわけです。
つまり、苦しみが現れてしまっているならば、その因縁があるということ。その因縁を変えてやれば、苦しみも変わるということ。
特に、その苦しみのありようを無くすための因縁、その方法をお説きになられましたのがお釈迦様になります。
苦しみを滅する道をお示しなさられているのであります。
是非、仏教を学び進めて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口 英俊 様
回答ありがとうございます。頭が働かないのですが、仏教を学ぶことはできるでしょうか。分からないけど、勉強する姿勢はとってみようと思います。