俗に言う、不良の優しさについて
今回もお坊さんの意見を聴きたく、再度質問させて頂きます。
悪人だった人が更生したり、他人に優しさを見せたとしても、元々普通に生きていた人や優しい人がいるから、更生や他人に優しくする事自体が普通であり、褒められることではないという意見がSNSやインターネットでよく見られます。
ただ、私はこの意見に少し疑問があります。
確かに、元々優しい人がいるのは事実であり、その人は褒められ、賞賛されるべきであると思いますが、それが悪人であったとしても同様であると自分は思うのです。そもそも、その人が悪人になってしまったのは相応の理由があるかもしれませんし、周囲の環境が悪く、他人のことを考える暇がなかった可能性があると思います。また、これは自分の考えになりますが、周囲に優しさを見せる事によって、褒められる、賞賛される事実を見せて、他人に優しくする事へのメリットを見せた方が、その人にとっても、周囲の人にとってもそちらの方が平和であると思っています(見返りが返ってくる前提の優しさはどうかと自分でも思ってしまいますが)
ただ、自分と同じような意見が少なく、これは自分が間違ってしまっている可能性があると考え、また再度、お坊さんの意見を聴きたいと考えました。
お坊さんは悪人の優しさについて、どのように考えますか?ぜひお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
懺悔する悪人であるならば、懺悔しない善人よりマシ
こんにちは。恵成と申します。
この問題は、よく「元不良の更生美談」として語られますね。
しかし、おっしゃるとおり、同じ良き行為をするならば、もともとの悪人より、元から善人の方がマシです。仏教は縁起を説く因果応報の教えですから、悪い行為などしないに越したことはありません。
しかし、その善悪というのは、目に見えるかどうかで大きく評価が変わります。
いわゆる不良と言われる人々は、目に見えて悪しき行為を働き、人を傷つけますから、世間の評価は悪くなります。
しかし、仮に表向きには品行旺盛でも、影で人の悪口ばかり言ったり、バレずに不正をする人間は、世間的な評価は変わりません。
そうなると、悪事が表沙汰になり、社会的制裁を受ける「不良」のほうが、自分の過ちに気づきやすいのかもしれません。
そう、大切なのは「自分の行為を事細かに分析して反省すること」なのです。
私達は生きているだけで知らず知らずに罪を重ねます。しかし、「私は善人である」と思い込めば、自分が気づかぬ間に犯している罪が見えにくくなるのです。
逆に、悪人は常に罪の意識がありますから、ふとしたきっかけで過ちを反省し、善行に転じる事が多くあります。それは、歴史を見ても、周囲を見ても明らかです。
人間、悪すらも長くは続かないものです。
また、おっしゃる通り、見返りを求める善行は善行ではありません。それを善行だと思い、反省せずに生きる事は罪に等しいと思います。
なぜ悪人が優しいと魅力的か、それは悪人の心に「懺悔」があるからなのではないでしょうか。
繰り返すようですが、懺悔のない善人よりも、懺悔のある悪人の方が、自らの仏心に近いと思うのです。
あらゆる宗教の始まりは懺悔から。
まず、自らの行動を省みることから祈りは始まるのです。
(答えになっていなくてすみません。)
【下衆の勘繰り】
世間が元不良の更生を美談と見るのか。醜聞と捉えるのか。
そんな事、元不良本人の知ったことではない。
元不良に尊敬の眼差しを向けるのか、軽蔑するのかは、
彼らを見る人の心次第。
更生の意志ある現不良も、更生した元不良も、
応援したいというのが私の立場です。
彼は善人か悪人か
ご質問を拝読しました。
横山さんの考察はとても着眼点がいいですね。ご自身の考察をより深めて頂いて、この世の不思議と戯れ、他者の役に立つ人となって頂きたいと感じました。
> そもそも、その人が悪人になってしまったのは相応の理由があるかもしれませんし、周囲の環境が悪く、他人のことを考える暇がなかった可能性があると思います。
こうした視点は、とても大切なことです。「相応の理由」も様々でしょう。社会環境、家庭環境、本人の性質など、一言では語れない個々人のストーリーがあるはずです。例えばこうしたことを考える仕事として、臨床心理士やカウンセラー、精神科医、小説家、社会福祉士、児童相談所、などなあり、様々な人たちが日々こうした問題に取り組んでいます。
さて、ここでは仏教の観点から考えてみましょう。悪人や善人とは何でしょうか。お釈迦様は「今」に注目されています。「今、善行をしていれば善人」「今、悪行をしていれば悪人」ということです。これは世間の価値観とは違います。刑務所に入っていても、今この瞬間は善人という場合があるわけです。
ここでの善行とは、煩悩を避け、他者を助ける心を起こすこと。悪行とは、煩悩を増やし、他者を意図的に傷つけようとする心を起こすこと。
善行は執着が減って、物事がクリアに見えてきます。悪行は執着が増えて、物事が歪んで見えてきます。
歪むとは、ありのままに見えないこと。ロープをヘビと見ること。外見で人を判断すること。好き嫌いで現実を分断してしまうこと。相手の意図を妄想してねじ曲げて誤解してしまうこと。等と、歪めば歪むほど苦しみが多くなります。悪行は結果的に自分を苦しめるわけです。
悪い心の働きというのは、怒りでも始まりは小さな感情ですが、放っておくともはや手がつけられないほど燃え上がります。感情も小さなうちに気づくことが大切で、そのため今の心に気づく練習をするのがマインドフルネスという瞑想療法です。
マインドフルネス療法は仏教のエッセンスを心理療法に転用したもので、悟りに至る内容ではありませんが、効果をあげています。
よろしければ調べてみて下さい。書籍なども多くでていますよ。
質問者からのお礼
返信ありがとうございます。ようはもう善行や悪行をする本人の心持ち次第というわけですか。行動だけでなく、そこに心が篭っているかが大事になってくるというわけですね。主観的ではありますが、御三方の意見は非常に的を得ていると私は思います。ただ、償いや懺悔を求めている、所謂「悪人」がいたとしたら、難しいことですが私も応援したいです。また、このことは自分の事として、日頃の行いを反省したり、考えたりして行こうと思います。ありがとうございました。今回も非常に為になるお話でした。