自我
お世話になっております。久しぶりに質問します。
最近、人間の自我の悲しさに思うことがあります。僕が異常なのか、皆そうなのかは分かりません。
僕はよく毛嫌いされることがあります。これはあくまで例の一つですが、ここで二人の自分が出てきます。
一人は、「まあ、この見た目(ちょっと不健康な見た目をしています)だから仕方ないな」と許す自分。
二人目は、「は?なんやねん、こいつ。(酷い時だと殺意が湧く時もあります」と思う自分です。
悪い思考が原因で不幸になることは承知しているので、前向きな思考をするように意識していますが、おそらく本心は二人目の悪魔のような心だと思います。
親鸞は「表面上は賢人の仮面を被っているが、内面はおぞましい心にまみれている(超訳)」という言葉を残していますが、まさにこのような感じです。
優しいのは表面だけで深層では自分勝手な思考ばかりです。
人間はこのような存在なのでしょうか?僕だけですか?
このような、人間の自我に対して苦しんでいるわけではありません。ただ、悲しいです。
それに、どう生きていけばいいのか分かりません。正直に生きるとおぞましい心で不幸になるのは目に見えています。賢人の仮面を被って生きると本来の自分を見失うことになると思います。
どのような心構えで生きていけばいいのか、ぜひアドバイスをいただきたいです。
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「本能と理性の心」を観る「第3の心」こそが本当のあなたです。
こんばんは。恵成と申します。
斉木さんのお相談ですが
「綺麗な表面上の自分とおぞましい本音の自分がいて、その本音の方が本当の自分である気がして悲しい」というものですね。
率直な感想を申し上げますと、
「もう悩みはほとんど解決に差し掛かっているなぁ」ということです。
なぜなら、仏教の説くところの「愚かな人」というのは「動物のように本能のまま生きていて、それに気づきもせず迷う人々」のことを言うからです。
仏教にかぎらず、およそ宗教で一応番最初に求められることは「懺悔」です。
今までの自分を客観視し、その過去を冷静に受け入れて、理性をもって改善する事を懺悔といいます。
すでに斉木さんは自分の内心にいる「本能的な自分」と「穏やかな言動をする社会的な自分」を冷静な目で客観視する「第3の自分」に出会っています。
仏教では、その「第3の自分」を「仏性」というのです。
仏性は「仏となる可能性を持つ自分」です。
また、高野山を開いた弘法大師空海さまは
「如実知自心」事実のように、ありのままに自分の心の有り様を知ることが仏の心である、とおっしゃいました。
つまり、斉木さんはすでに自分の心を眺める「仏の眼」を持ってらっしゃる。そしてそれこそが「本当の自分」なんです。
悲観することはありません、むしろ、喜ばしい事だと思います。
その「仏の眼」で、自分の本能も理性も包み込んで、うまくそれを制御しながら、さらに進まれてください。
合掌
質問者からのお礼
恵成さん回答ありがとうございます。恵成さんの回答を見て、とても心が軽くなりました。そうですね。「本能的、社会的」というのはとても腑に落ちる表現です。本能的な自分と社会的な自分のバランスを取るのが第3の自分なんですね。そしてこれが本当の自分。自分の愚かさを認めて、本能的な自分に支配されないように、冷静に生活していきます。ありがとうございました。