人に優しくするのは正しいのでしょうか。回答受付中
最近、三度ほど、他人から八つ当たりされることが相次ぎ起きました。
どれも職場で起こりました。
一度目は、忙しい時に余裕がなくなった上司から、キツイ言い方をされました。
二度目は、先輩が悩み事が色々あるようで、話を聞いてあげるだけでも心が軽くなるかと思い、話を聞いていました。何度か会話をするうちに「羨ましい」と言われることが増えて、次第に先輩の態度が悪くなっていき、ついに乱暴な口調で文句を言われたので、それから距離を置いています。
三度目は、後輩から仕事で分からないことがあるので教えて欲しいと何度も頼まれたので教えていました。その人は元から、プライベートの方の人間関係が上手くいっていないようで、周りに悪態をつくことが多くなっていたのですが、仕事を教えて欲しいと言われて教えた翌日に、機嫌が悪かったようで話しかけても無視されたり、冷たい対応をされました。
このように他人に優しくしても、八つ当たりという形で返ってくるのなら、人に優しくするのは間違いなのだろうかと悩みを抱えてしまいました。
お言葉を下さると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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過ぎなければ優しさの継続を。
拝読させていただきました。
「やさしくなりなさい」と大人は子どもに教育一環として言葉を掛けます。
しかし、なぜにやさしくならなければならないのか?やさしくすることで何が芽生えるのか?の具体的な意味を教える大人はすくないものです。
優しいは字の如く「優」=すぐれている。という意味であり、聡明な方にできることを意味します。
ただ何事にも落とし穴があるものです。
それは「優し過ぎる」ということです。いわゆる真面目な人ほど損をするという類と似ています。
「真面目で何が悪い?」と一見感じるものの、真面目や優しい人は誠実であることから真摯に何事も取り組んでくれるという一面性を持つので、ズル賢い人からすれば"利用できる人(責任を押し付けれる)"と思われることが多いからです。
仏教の根本教理は「中道(ちゅうどう)」です。仏の教えから外れた道を歩む人を「外道」といい、よく時代劇などでも見受けられるセリフです。
この中道が円谷さんのキーポイントであり、心掛けている自然な優しさ+中道を持ち合わせて見てください。
いわゆる"真ん中あたりの道"でありますが、精神である「心」はどこにも無い「空(空性)」と仏教では説きます。それを『般若心経』がすべてを語ってくれています。
※偏執しない心
1、かたよらない心
2、こだわらない心
3、とらわれない心
たったこれだけなのですが、「過ぎる」ということも偏執です。
優しい人。でも威厳はある。
優しい人。でも凛としている。
優しい人。でも油断はできない。
等々ですが、優しさに過ぎていないか自己の内面を観ることが肝要です。
ただ利用している人の人生はいつまでも甘え上手でもあることから世渡りをしていきますが、人間としてはとてもとても薄っぺらい人に完成します。年齢を重ねる毎に「人生とはこんなに厳しいのか?」「歳を取ったらこんなものか...」などしか理解できない人となります。
いまは分からなくとも円谷さんの優しい徳は知らぬ間に積んでいることも忘れないでください。やがてその徳は、よからぬ力と成り良い人徳が助けてくれる環境を導き出します。
とかく「過ぎていないか?この優しさは?」の内面を観察しながら、次はどのようにすれば、優しさを制御できるのかを考えてみてください。
「親は優しいが、厳しさもある。なぜなのか?」
ここに秘密が隠れています。