寂しさを乗り越えるには
年始のお忙しい所、失礼します。
30代という年齢と内面の未熟さとの差にいつも情けなくなっています。
私は、2年前に母親を亡くしましたが、年甲斐にもなく、母親っ子で、何でも今日あった出来事を話すぐらいの仲でした。
母親は、晩年は闘病生活を占めていましたが、それでも、母と何処に出かけたり、食事をしたりしました。
この2年間、仕事をすることでその寂しさを紛らわしてきましたが、年末年始などの長期休みや休日など、時間があるとどうにもならない寂しさが込み上げてきて、何も手につかない状態になってしまいます。
母親が闘病生活をしていた時は、私も精神的に悩んでた時期でもあったため、もっと今頑張っている姿を見てほしかったなとか、頼れる人が誰もいなくなってしまったななどと考えてしまう部分があります。
寂しさを忘れるためには、やはり、目の前の一つ一つをまずは頑張り、時間が解決していくことなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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寂しさを自己としていく、実は寂しさが人間の本質です
お母さんがなくなってから、寂しさが募ってきた。最近ますます寂しさこみあげてくるようになった。
寂しいっていう感情は悪いとか、消さなきゃいけないものではないと思うんです。情けない事ではないですよ…。自然な心情でしょう。仏教では一切皆苦という言葉があります。これは全てが苦しみだという意味ではなく、苦(= dukkha)というのはインド語では思い通りにならないという意味なのです。つまり人間にとって、思い通りになる事は何一つない。年をとるほど、思い通りにならないことは増えていく。知っている人はどんどん居なくなり、自分も老い、病みます。でも、お釈迦様はそれがまぎれもない真実だと言います。さらに苦(dukkha)には穴という意味があります。人間はどうしようもない埋められない穴、空虚さをもって生まれてくるのだとお釈迦様は喝破する。仏教は都合がいいことが起こったり、問題がスパッと解決する教えではありません。「この寂しさをを抱えて一緒に生きていこう」そう仏様が一緒に励ましてくれているのだ思います。(「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる」金子大栄)
お経にこんな言葉があります。「人は皆一人生まれ、独り死し、独り来て、独り行く。誰も代わってくれないし、代わることもできない」寂しい響きに聞こえますが、これは人間の真実を言い当てているのではないでしょうか?寂しさに目覚めることによって、また誰かの寂しさにも目覚め、相手の寂しさに共感していけるような人に成れるのではないでしょうか?逆に言えばこの目覚めを通さない、いたわりや共感は見せかけだけのものとならないでしょうか?
今の寂しさはあなたをより深く成長させる、修行の意味を持つのかもしれない。
寂しさによって育てられているのかもしれない。
寂しさを忘れたり、無理矢理消すのではなく、寂しさを抱きしめていってはどうでしょう。そういう孤独を知った者同士が、本当の意味で手を取り合って生きて行けるのではないでしょうか。あなたが、寂しさを受け止めて行けるような者、それすらも自分の人生の大事な出来事として深く受け止められるような者に成るとき、自然と手を取り合う、友人や仲間、新たな出会いがあると思う。どんなあなたでも応援しています。