父を看取った時のことを引きずっている回答受付中
一年前に父を看取りました。
当時父は緩和ケア病棟に入院していて、病院から危篤の連絡があって母と向かい、そのまま看取りました。
最後にみた父は息をするのも苦しそうで、しきりに何かを伝えようとしていましたが、声は出ず、私はただベッドの横にしゃがみ込んで、「今までありがとう」という言葉を繰り返しながら父の手を握り泣くだけでした。
こういう時、(家族間が良好な場合)おそらくみんなが「死なないでほしい」と考えると思います。
でも私は、「早く楽になってほしい」と思ってしまいました。
父が苦しんでいる姿が見ていられなかったし、父の身体はどうしようもない苦痛に満ちていらと考えたら、もう苦しまずに早く楽になってほしかった。
病院から連絡を受けた時、今すぐなくなるのか、それとも1日くらいはもつのかわからないと聞いていたので、このまま24時間ちかくも父が苦しんでしまう可能性があると思うと、自分の手でもう楽にしてあげたいとまで思ってしまいました。
父には幼い頃からたくさん旅行に連れて行ってもらい、一時は反抗期も迎えましたが、大人になってからも色々悩みを聞いてもらったり、自分が会社でパワハラを受けて退職した時は実家に呼び戻してくれて、落ち着くまではここにいなさいと温かく迎えてくれたこともあります。
今でも街中で背格好が似た人を見かけたら、父かもしれないと期待して顔を見てしまうこともあります。父の好きだったものを見ると涙が出ます。
それぐらい父のことが好きなのに、最後の最後にそう思ってしまった自分のことをとても後悔して、今でも引きずっています。
でも、苦しむ時間が長くなるだけだから、死んでほしくないとはどうしても思えなかった。
私はひどい人間です。父の最期を目の前にしてそう思ってしまったことをずっと後悔しています。この後悔とどう向き合えば良いでしょうか。どうすれば素直に「死なないでほしい」と思えるような人間になれるでしょうか。
お坊さんからの回答 1件
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ご相談くださり、本当にありがとうございます。そして、お父さまとの最後の時間、その深い葛藤をここに綴ってくださったことに敬意を表します。
あなたが最期の瞬間に思った「早く楽になってほしい」という気持ちは、決して“冷たい感情”ではありません。むしろそれは、深い愛情と、相手の痛みを我がことのように感じられる人だからこそ生まれる祈りです。
苦しむ姿を見ていられなかったのは、お父さまが本当に大切だったからです。「死んでほしくない」ではなく、「苦しまないでほしい」と願った。その思いの奥にあるのは、お父さまのことを思いやる心にほかなりません。
人は、「大切な人が苦しんでいる」とき、その痛みに耐えきれず、「この苦しみを終わらせてあげたい」と思ってしまうことがあります。それは命を軽く見ているからではありません。命の重さを知っているから、苦しむ時間が長くなることを恐れてしまうのです。
仏教では、「慈悲(じひ)」とは、苦しみを取り除いてあげたい(=悲)楽(幸せ)を与えてあげたい(=慈)という、二つの心から成り立っていると説きます。
あなたの「楽になってほしい」という思いは、まさにその「悲」の心です。「死なないで」と叫べる人だけが、愛しているわけではありません。「どうか楽にしてあげたい」と願う人もまた、深く愛しているからこそ、そう願ってしまうのです。
きっと、お父さまも、あなたの手の温もりと、「ありがとう」という言葉に心救われていたはずです。たとえ声に出せなかったとしても、あなたの存在は何よりの支えだったことでしょう。
後悔を消すことは難しいかもしれません。でも、それと同時に、「あの時の自分は、自分なりにお父さんを思っていた」と認めてあげてください。後悔も、愛の一部です。
そして、これからのあなたの毎日が、「お父さんの優しさを受け取った人間として、自分を大切にし、誰かにやさしさを返していく生き方」であるならば、それこそが、お父さまへの一番の供養になるのではないでしょうか。
あなたは、ひどい人間なんかではありません。深く悩み、涙を流し、それでも真っすぐに生きようとしている、とても優しい、温かい心を持った方です。
どうか、その優しさを、ご自身にも向けてあげてください。もしまた苦しくなったときは、いつでも言葉を届けてくださいね。あなたは、決してひとりではありません。