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他人も世の中も信じられません

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数年前から、友人の裏切りにあったり、信頼していた人の嫌な一面を見てしまったり、色々な人から理不尽な(と私は感じた)悪意を向けられたりすることが続き、人を信じられなくなってしまいました。

その上、次から次へと運の悪いことが続き、何をしても改善せず「一見良さそうなことが起きてもどうせすぐに期待を裏切られる」「いくら祈ったり誰かに親切にして徳を積んだりしても神様や仏様はどうせ見ていてくれない」と何もかもを疑うようになってしまいました。

その結果、人の嫌な面ばかり見て嫌いな人を増やしてしまったり、何でも悪い方にとらえたりする意地悪な人間になってしまったような気がします。それが態度にも出て、つい嫌味な言い回しを口にしてしまい、人を不快にさせてしまって後悔したこともあります。

いつか運が良くなると信じたかったのですが、今も嫌な出来事ばかり周りで起こるような気がしています。本当は幸せになりたいし、素直で優しい人でありたいのに、私自身が不幸を呼び込んで自ら嫌な人間になる選択をしてしまっているんだろうかと思ったりしますが、そこからどうしたら抜け出せるのか分かりません。

こんな私にも救われる道はあるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それでも悩む際に起こる悩みの火はどこに着く?

あの人が嫌いだ、あれが嫌だ、あれがムカつく、あれが嫌い。
ピーピー、ぷーぷーいう煩悩の炎が着火するところはどこでしょう?
相手ですか?あれですか?あっちですか?いいえ、いいえ。
自分の運を下げてはいませんか?
幸せを逃していませんか?
優しさを損ねて毒ガスばっかり発生させていませんか?
人間の煩悩・苦しみ・ストレスはいつもその火が着くところは一つだけ。一か所だけ。ひと時だけ。それを知ることで問題が山積みにならず、沢山のことを相手にせずともただ一か所、たった一か所だけをただせばよいようになりましょう。
煩悩の炎が着火するのは、相手でも状況でもなく、自分の心。自分の脳内。自分の頭ん中の煩悩暖炉の中だけです。
相手を嫌ったり、イライラする際、今度その場所を確認してみると良いでしょう。
実は相手にあるのではなく、各自が自分の頭の中の煩悩暖炉の中なのです。
万事はその万事を感知するこのわが身のことの映し出され。
世間のことや他人のこと、気に入らんことを気にいらんと問題にするリアクション着火はあらゆる人間の各自の頭の中でやっているだけです。
そこの火を静めることが大事でしょう。
相手がどうだこうだ問題にするのもわたし。
自分はだめだと卑下するのもわたし。
どうせ未来は明るくないと勘違いするのも私。
なにかと難癖付けるのも私。
私、私といっても、その私の中のどこかと言えば自分の頭の中の煩悩暖炉に着火する🔥炎だけが問題なのです。
この故に仏道修行とは相手を変えるのではなく自分の在り方を変えることが大事なのです。
コップが倒れて大騒ぎする人間もいれば、平然としずかにただ片付ける人もいるのはなぜでしょう?
同じ状況に遭遇しても過剰に反応する人もあれば、平気な人がいるのはなぜでしょう。
それを病気とか、性格のせいにしてはいけません。
その事実を毎回、その事実として冷静に見つめて、自分の脳内煩悩ファイアが着火する前の静けさをキープすることが人生のしあわせ、やすらぎ、心の豊かさ、やさしさ、あなたの今後の人生を輝かしいものにするための大切な課題です。
沢山のことをやる必要はありません。まずは、今日の一つをクリアーすることから始めてみてください。一つ平気になれば、次の機会。次の怒りポイント、凹みポイント、悩みポイントで心の火をつけないようにするのです。
価値ある修行、精進あるのみ。🔥

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。イラッと来たり嫌なことを思い出しそうになったら、自分の心の中にある炎を消すことをイメージしてみました。そういうことがあると周りが全部火の海になっているように錯覚していましたが、そうではないと意識したら少し冷静さを取り戻せるようになった気がします。

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