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怒りたくない、口論したくない

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今までうまくいかない物事に怒り狂っておりましたが、最近になって全てがめんどくさくなり、また怒っても主張してもその場にそぐわなければ思う結果が得られないとわかりました。
なので他人と深く関わらず口論討論言い争いを一切したくないと考えております。

ただそうすると「無駄に損をして金を無くすぞ、世の中はズルしたもん勝ちなんだからもっと要領良く生きろ。仕事なんて頑張らなくて良い、上司へのゴマスリが一番だよ、そんな考えで生きてどうすんだ、せっかく大企業で正社員なんだぞ」など言われてしまいます。私はもうどれもやりたくありません。
あーあなたとは合いそうにないわあ、じゃあバイバイね。で済ませたいです。ただ世の中が・この年齢での生き方的に許されない気がしております。

馬鹿正直クソ真面目なんて何の得にもならないし、プラス怒りや他人に対してやってやろうみたいな気持ちが消えてしまい自分はどうしたら良いんだろうと不安になっています。

漠然とした内容で申し訳ありませんが、気が向きましたらお答えいただけますと幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世間のルールから出離。自分のこうだろうという思いからも出離。

天に向かって唾を吐くとその唾が自分に跳ね返ってくるものです。
テヤンデー、バーロメー、ティクショーメ(# ゚Д゚)!乱暴な言動も自分に返ってくるもんです。その言葉のペイントで誰が塗られ、誰が傷つくでしょう?👉結局自分なのです。だからあんまりやっちゃいかんのです。
イライラしたときについ吐きたくなる攻撃性を含んだ言葉というものは自分も相手も救われないからです。
昔、ロックのギタリストで唾とか飲んだビールとかクジラみたいに上に向かって吐いているギタリストがいたのですが、ロックギタリストの悲しい宿命と言いましょうか、ロックっぽく反骨なスタイルでやっていたのかもしれませんが、ああ、なんか汚かったです。やらなきゃいーのにと思いました。キャラを演じるのも大変なのよね。あと、あとで大変ですよ掃除も。ステージも汚れちゃうし。ギターもべたべた。自分でも自分で吐いた唾がかかったらなんか汚いじゃないすか。キクユ族ならまだしも。その後、やらなくなりました。そのおじさん。自分でもわかったんでしょうか。ザックワイルドと言います。
悟りを開いたギタリストといわれるジョーサトリアーニキことサトリアーニはこれ(諸説あり)またロックギタリストの宿命と言いましょうか、時々、ライブで歯でギターを弾くのです。ある時また悟りを開いたらしく第三の自分がツッコミを入れてきたそうです。(仏の啓示との説も)「おい、オマエ毎回何やってんだ。そうやってエナメル質を削っちまってどーすんだ。老後前歯を痛い思いをしながらソーメン食うんか。前歯無くなっちまったら噛めねぇぞ、麺。」
それから、バカバカしくなってギター弾くのやめたそうです、歯で。(諸説あり)
仏教で悪口を言うなというのはそのネガティブ意識、ネガティブなエネルギーで最終的に汚されるのは全部自分だからだということなのです。
因果応報とか、報いというのはその発言、言動、アクションをするとそのアクションの持つ作用が如実に自分にあらわれるということです。褒めれば褒めた効果が。迎合すれば迎合の効果が。さらに自分を高めてみませんか?迎合でもなく、我慢でもなく、ウソでもなく自分に正直になれる方法、あります。どこか自分でもハスに構えているところがあるのでは?その自分のこころも嫌な相手も世間の未熟なレベルをも善導する精神を持つことが仏教の持つ菩提心です。共に世の善導に励みましょう。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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