言葉にイメージがあるのは変ですか?
先日、母と かわいそう という言葉について口論になり、私の感覚を伝えてみたところ、かなりきっぱり否定されました。
(ありえない そんなふうに感じるのは性格がひねくれてるからだ等々)
普段は温厚な母なので、私がおかしいのかなと思い、質問させていただきました。
まず、辞書には "みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持であること。ふびんなさま。" とありました。もちろん意味は理解できます。
母は、辞書の定義通りの解釈ができているようで、色々な人や物事に かわいそうね と言います。
しかし、私は同情してしまうような辛い状況があったとしても、かわいそう を人に使うことには違和感を感じます。
なぜかと言うと、私には「かわいそう」は高みの見物というか、なんとなく他人事のように聞こえるからです。また、上から目線だったり、ちょっと軽蔑する感じもします。
上手く伝わるか分かりませんが、すごくお金持ちの人がお金が無くて困ってどうしようもない人をせせら笑って「(私じゃなくてよかった〜 )かわいそうね」と言うのに特段支援はしない、みたいな感じです。
ネットで検索すると似たような意見はありますが、私にとって都合のいい意見を無意識に探して見ているような気がしてよくわからなくなりました。
こんなふうに、もともとそういう意味は無くても、なんとなく言葉に裏のイメージを持っているのはそんなに変でしょうか。あまりにもきっぱり否定されたので怖くなりました。
乱文になりましたが、お答えいただけると嬉しいです。
既に無くなったものに囚われてしまう
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多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
言葉は生きています
こんにちは。
とても共感をもって読みました。
「言葉にイメージがある」のはそのとおりだと思います。
あなたが例に出しているように、「お金持ちの人がお金が無くて困って」いる人に「かわいそうね」というのはどこかしら嫌味に聞こえますよね。その言葉を発する立場、言い方、その人の表情など様々な要素が合わさって言葉は多用な意味を持ってきます。
言葉は生きています。
時代によって、人によって言葉は本当に生き物のように変幻自在に意味が広がります。
最近の言葉では、やばい、がそのいい例です。
私の若いときにも既にこの言葉はありましたが、あくまで酷いとか、苦境を表すネガティブな意味に限定されていました。しかし、今は凄い、嬉しい、楽しいなどの驚きや最大限の喜びを表す意味にまで拡充して、感情全てを言い表すぐらいに多用されています。
神、だってそうです。
あくまで厳かな畏れ多い存在、対象という意味に限定されていたのが、今はマジ神のような相当俗的な使い方をします。絶妙のタイミングでの助け船、こういうニュアンスでしょうか。
慇懃無礼という言葉もあるように、言葉は至極丁寧でも言っていることはとても失礼という用例もあります。
あなたの感覚は全くおかしいものではありません。
むしろ、言葉に敏感なのは、自他に対してより多くの角度でアプローチできる意味でとても大切な長所だと思います。身近な人に理解されないのは残念かもしれませんが、自信を持ってその美徳を育てていって下さい。