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すれ違いの修復

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有り難し有り難し 8

初めてご相談させていただきます。
結婚して1年の夫とのことで悩んでいます。
夫婦共々お酒が好きなのですが、夫が先日羽目を外したようです。
ふざけてセクハラ紛いなことをしたようで、夫の会社の方との飲み会に同席した際発覚しました。
相手の方は許してくれているそうで、私もお酒を飲むので失敗することは分からなくはないということから喝を入れる程度でその行為自体は許せました。
しかしそんなことをする夫が残念で情けなく感じてしまい、好きという気持ちのモチベーションが下がってしまいました。
正直惚れ直させて欲しいというのが本音です。けれどその努力をするかどうかは彼次第。
私自身はどうしたら彼への気持ちを取り戻せるのか?と考えていました。

彼はとても反省しており、私との過ごし方を提案してくれたりもしました。
ですがその日は冷たくしてしまったので、翌日謝りました。
お酒も一緒に控えるように頑張ろうと提案しました。
そして怒ってはいないけど、残念だったと伝えました。
彼は冷たくされたことが寂しかったと言って、反省もしており、あとは熱りが覚めてまた仲良く穏やかに過ごせるように歩み寄ればいいかと思いました。

しかしそんな中、彼は女の子を自分から食事に誘っていたのです。
(彼のスマホ画面が見えてしまったからですが、様子がおかしいというか嫌な予感がして故意に覗いたとも言えます。)
察するに想ってもらいたい相手に否定された悲しさ、信頼してもらえない心細さ、自分が頑張って歩み寄っても受け入れてもらえない虚しさ故に
女性に肯定してもらいたい、優しくされたい、という感情が私以外の方(たぶん飲み屋の女性)に向いてしまったんだと思います。

昔風俗に行かれたことがありそのときとても傷つきふたりで乗り越えたという過去もありました。
私はただ、付き合い始めのように疑う心を持たずただ愛し合いたいだけなのです。彼からの愛を受け取らず、自分の欲求を押しつけて疲れさせてしまっているということなのか?
癒しの存在でありたいはずが、怒っているように捉えられるのは変わってしまったのは私の方なのでしょうか?
ますます距離が開きギクシャクしている感じが辛いです。
私から好きだと伝えても受け取ってもらえていないように感じます。
私にできることはなんでしょうか?
助けてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人が人の心を求めることの究極は何か

人には渇愛の心があり、この自分自身を満たそう、満たそうとする心理が誰にでもあるものです。本当に人間が完成した方であればこの自分自身が他人に求めずとも自身で安らかになれる安楽ZONE、安心Hz、安穏周波数を求めるようになります。
ですが、ご主人の動きを伺いますとそもそも出会いがそのような手法を通して知り合われたと言う事ですが、その手の活動を今もされていると言う事は問題です。スマホの乗り換えじゃないのですから、きちんと家庭的な夫婦になるべきでしょう。
よってご主人の「構ってほしいちゃん」の浮気性を今の時点で完全に縛り付けてルールを設けるべきです。人は結婚という状況の中にあっては絶対に他の異性と少しでも誤解をされるような行為はしてはいけないのです。それが男女の互いの尊重であり、夫婦の基本であり、仏教でも不邪淫戒という「道ならざる愛欲を犯してはならない」という戒めです。それに外れることはやはり道外れ=安楽安穏から遠ざかるようになるからです。
夫婦とは冒頭に申し上げたお互いの渇愛をも満たし合う関係であるべきですから、あなたもそこをきちんと要求すること。そしてご主人にもそのルールを犯してはならないことを弁えさせること。そのためにも旦那の他の女性に対するちょっかいやナンパ行為は改めさせるべきです。その分をきちんとあなたが心のさびしさを埋めると伝えればよいのです。もし、旦那が貴女ではダメで他の女性がいいと抜かすのであれば、それは夫婦としても人間としてアウトですからそんな非家庭的な男性とは上手に別れることをお勧めいたします。ですが、その前にお互いが自分の渇愛や愛を相手に求めていることをきちんと向き合うべきであろうと思います。
愛とは自分がこれ良かれと思ってやっていることはその時点で滑っているものなのです。相手を知る。相手の好みを聞く。相手のしてほしいことをやる。こどもにだってそうなのです。貴女だって彼にそうしてもらいたいという愛の形がある。
何故世の中にキャバクラやらホストクラブや風俗が存在するのか。それを必要とする人が現実にいるからです。人が結婚の状況下にありながらも他の異姓に気持ちが向かうと言う事はお互いに向き合っていないから代わりとなる渇愛を埋めるものを求めている姿です。
きちんとお互いの求めを話合えてこそ夫婦ではないでしょうか?
お互いに自分の満たされを話し合ってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

夫に話し、現時点では収まりました。とはいえ夫婦として男女として人間としてどう付き合っていくかは、これを機に絆を深められるかだと思います。

まだまだ未熟ですが、お互い向き合うことを避けず、添い遂げられるように関係を築いていきたいと思います。
今回は本当にありがとうございました。

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