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欲の観察についてアドバイスを下さい

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私は自身の欲を観察するとき、三毒(貪瞋痴)の概念をいちいち用いてその欲をラベリングしていくよりも、その瞬間における「欲している感覚、執着している感覚」と「あるがままの現実の状況」それぞれに直感的かつほぼ同時的に気づいて「あ、欲に囚われている。執着している。」と実感していく方が楽に欲望熱中状態からの切り替えを行えるのですが、やはりそのような大雑把なやり方よりも三毒の概念で細かく分析していくようにして精進していった方がふとした出来事から来る「思わぬ躓き」や「精神的カウンター」のような「痛い目」に遭い難かったりするのでしょうか。
というのも、私の場合三毒の概念を用いると、どうしても「慢」への対処がおざなりになってしまう傾向があるような気がするのです。(ちょうど今日それで「痛い目」に遭って苦しんでしまいました……)
私は出家でも在家でもない身分ですが、どうかアドバイスいただけると幸いです。

2021年6月1日 3:15

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

根っこ

センジョウさま

欲の観察、三毒(貪瞋痴)の観察において重要なのは、その分類や分析ではなくて、その大元、親分の正体を見極めて、そこを対治していくことが大切となります。

いくら枝葉を切っても、根を切らないと解決にならないというところです。

その根っこは、無明(根本的な無知)となりますが、更にその大元は、倶生の諦執、真実執着と言われるモノ・コトへの実体視執着になります。

まるでそれが実体があるかの如くに顕れてくる、その顕れへの囚われとなります。

そのように認識してしまう問題をどう解決していくのか、それに取り組むことで煩悩障と所知障を滅していくことが、仏教においては大事となります。

このように私たち凡夫の誤った認識のありようについては、下記がその理解に役立つでしょうから、ご参考になさって下さいませ。

「お化け屋敷の喩え」(齋藤保高先生)
http://rdor-sems.jp/index.php?%E3%81%8A%E5%8C%96%E3%81%91%E5%B1%8B%E6%95%B7%E3%81%AE%E5%96%A9%E3%81%88

川口英俊 合掌

2021年6月3日 5:55
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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

一瞬ごとの感覚と仏教心理学での分析

を分けて扱った方が良いと思います。
 ヴィパッサナー実践しているときは、すべての感覚を一刹那ごとの生滅になるまで細切れにして、次の刹那のものとは分けて扱ってください。何でもいいから感受してそれを「欲」と感じたら、「欲」だけで捨てる。次の刹那も、というか、何秒(何億刹那)も続けて同じような感覚が生じますが、それぞれ、変化するまでは「欲」「欲」「欲」と見ては捨てる見ては捨てるを続けるしかありません。千本ノックとかもぐらたたきみたいなものです。
 見て捨て続けていると、「欲」が消えたり(新たに生じなくなったり)、同じ「欲」でも少し感覚が違ったりするかもしれません。そのつど、別のラベリングをして、見ては捨て続けてください。一瞬ごとの変化生滅なので、考える暇などありません。
 瞑想の後で、今日の瞑想では……と、しっかり分析してください。
 日常生活では、臨機応変にやるべきです。時限付きで何かの用事をしている最中なら、てきぱきとこなし、終わってから、一応、あれでよかったかどうか頭で確認して、いったん終わる。感情とかの分析もその時やればよいでしょう。
 時間をかける余裕があるなら(たいてい、ありません)、心が汚れないように丁寧にやる。汚れて消えないなら、分析してみる。しかし、すべて瞬間ごとの生滅なので、過ぎた時間の分までさかのぼる暇はないと思います。
 TPOをわきまえて、その都度、適切に対処してください。うまくいかなくても、どうせそれは過ぎ去っています。

2021年6月1日 7:52
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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...

質問者からのお礼

お二人のご意見を読んで、改めて己を省みることができました。
そうですよね。あくまで根本にアプローチしなければならないことを忘れていました。
アドバイスありがとうございました。

「欲望・欲を抑える」問答一覧

密教における欲、怒りについて。

昔、私が学生だった頃、大学でインド哲学を学んだ人から、こう教えられました。「初期仏教では人に属する欲は全て良くないものと全否定されるが、時代が経てだんだんと欲は肯定されていって、仏教の最終段階である密教では「セックスは菩薩の境地だ!」と教えられるのですよ。そうやって密教では性も含めあらゆる欲が全肯定されるに至るのです!」と。 また同時に、弘法大師を信奉するある僧侶の方が「日本人は怒れないないからダメなんだ!」と仰り、その言葉を持って、先の人からは「(人に対して社会に対して)もっと怒れ!怒れ!」と、私は言われ続けました。 私は{密教では怒りの感情も人間に属する<聖なる属性>として肯定されるのか。。}と思い、それからというもの、私は何かと「怒り」を持って親や世間の人たちに接し、それが故に大きな軋轢を家族や人々との間に作ってきました。 今はそのようなことすべてを後悔しています。 私も老齢を迎えつつある今、お釈迦様の言葉や弘法大師の「四恩十善の教え」を知るなかで、実際のところ、密教では「欲」や「怒り」はどのように扱われるのだろうという疑問が頭から離れません。 彼らが言ったように、欲や怒りは密教では「善きもの」なのでしょうか? そのように肯定されるものなのでしょうか。 お釈迦様の教と密教はそれほど違うものなのでしょうか。 どうぞお教下さい。

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新しい刺激を得たい欲求との付き合い方

ストレスが溜まると新しい刺激が欲しくなります。(週1ぐらい) 同じ毎日に嫌気が刺し新しい楽しいことがないかと考えます。 しかし、それのせいで先日夫と喧嘩をしました。 少し前から私はこの人生を鮮やかにするには新しいことを習慣化し自分の特技を作ろうと語学の勉強をしていました。 勉強をしていくうちにペラペラになりたいと思い、なった方々を調べるとネイティブの方と喋るに尽きるとのことでした。 私は留学はできませんしお金もあまりないので、海外の方と交流できるコミュニケーションアプリの利用を考えました。もちろん女性とだけ関わるつもりでした。 しかし、夫は元々SNSを酷く嫌がるタイプの人間なのでやはりダメでした。 自分からすれば刺激のない日々の対策を自ら見つけ、コツコツ頑張って来たので腹が立ちました。何も男の人と関わるとは言ってないからです。 とはいえ、夫がそう言うだろうとはわかっていました。自分は夫の方が大事なのでそこは自分が諦めました。 しかしながら、じゃあその代わりになる物があるかと言うとそうじゃないです。 今まで散歩や、新しい料理、掃除、読書などをやってましたがどれも物足りなかったです。 また何かを見つけない限り自分は生きてるのが苦痛になると思います。 このストレスを得ると新しい刺激を得たい欲求とどう付き合うのが良いのでしょうか。

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「欲」との向き合い方が分かりません。

いつもお世話になっています。 タイトルの通り、欲とどう付き合うべきなのか、より正確には「無欲」とどう対峙すれば良いのか悩んでいます。 私は基本的に、様々な物・事に対する欲や執着が薄い傾向にあります。 物欲はもちろん、金銭や名誉への執着も大してなく、娯楽や趣味も没頭するほど興味の強いものが特にありません。 人間である以上、欲が皆無という事は有り得ませんし、あくまで「欲が薄い」のだろうと自身では思っていますが、実際それを周囲から指摘される事がたびたびあります。 例えば物欲ですが、生活必需品(消耗品)以外の物について「どうしても欲しくて堪らない」と感じる事がほとんどなく、自ら買いに出かけるような事はまずありません。 流行に疎く、新しい物・珍しい物への関心も薄いです。 毎年誕生日にプレゼント交換をする友人がいますが、これと言って欲しい物も思いつかず「じゃあこれ適当に使って」と仕方なく現金でもらった経験さえあります。 しかし、そのお金に関しても「欲しい物、したい事があって貯めている」わけではなく、「使う予定がなく必然的に貯金に回っている」状態です。 他にも、人と会ったり遊んだりする際、行きたい場所、したい事がパッと浮かばず、基本的にプランは相手任せです。 (表現が適切か定かでありませんが) 「意見がないに等しい」ので、仮にどこで何をする事になっても、それを苦に感じたり嫌に思ったりは特にありません。 ですが周りからは「それで本当に楽しめてるの?」と逆に疑われる事があります。 また、私はどちらかと言うと「〜したい」より「〜したくない」という欲が強いです。 自身の経験上(※詳細は過去の質問をご参照願います)、常に思考の根本に「周りを巻き込みたくない」考えがあり、結果的に「相手に合わせる」、より正確には「相手任せ」という展開が大半です。 自分自身に関しても、「今以下にはなりたくない」、強いて肯定形にするなら「せめて現状維持でいたい」です。 欲の無さは同時に自信や向上心の無さだと聞きますが、やはり欲が薄いのは総じて良くないのでしょうか。 欲の薄い自分はまともに自己主張すらできない弱い人間という事なのでしょうか。 欲が薄い事は「恥ずべき」事、「改めるべき」事に当たりますか。そうである場合、それを直していくためにどのような事を心がけていくべきか教えて頂きたいです。

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踏みにじられたいという欲求について

誰にでも、こだわりや真面目に取り組んでいること、話題にしたく無いことなどの他人に土足で踏み込まれたく無いゾーンってものがあると思っています。 私自身、他人のそういうのを察すると避けますし、大体の人達は何も言わずに見守ってくれたりします。 親しき仲にも礼儀ありと言うのか、タブーに触れて相手を傷つけない為に、そして自分も嫌われないように、そうするのだと思います。私はそうです。 私にもそういったどんなに親しい友人にも触れて欲しく無いものごとが有ります。 いい意味でも、悪い意味でも、本気だから茶化されたく無いし、自分による自分の為のものだから、と感じます。 ですがその一方で、他人にそれを指摘されたい、話題にされたい、踏みにじられたいと思います。 話題を避けてくれたなと思う瞬間があると寂しさを感じることもあります。 これは承認欲求なのでしょうか。 他人から自分という存在を知ってもらっていることを明確に確認したいのか、と考えたりします… 本音でぶつかりたい、とはまた違うような気もしますし、なんでも話せる友人に一度言ったことがあるのですが、友人からの私を傷つけないようにという優しさを無碍にしてしまっているような、困らせてしまっている罪悪感を感じました。 私も大切な友人にそういったことをしたくは無いと強く思いますが、私はされたいのです。結果自分は傷つくだろうむかむかするだろうもしかしたら嫌いになるかも、とは思いますが… 自分でもよくわからない感情にモヤモヤしています。あまり人には共感されにくいと思い他人には話せずに寂しさを感じています。 皆さまの視点からのお話を聞かせていただけたらと思います。

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