欲の観察についてアドバイスを下さい
私は自身の欲を観察するとき、三毒(貪瞋痴)の概念をいちいち用いてその欲をラベリングしていくよりも、その瞬間における「欲している感覚、執着している感覚」と「あるがままの現実の状況」それぞれに直感的かつほぼ同時的に気づいて「あ、欲に囚われている。執着している。」と実感していく方が楽に欲望熱中状態からの切り替えを行えるのですが、やはりそのような大雑把なやり方よりも三毒の概念で細かく分析していくようにして精進していった方がふとした出来事から来る「思わぬ躓き」や「精神的カウンター」のような「痛い目」に遭い難かったりするのでしょうか。
というのも、私の場合三毒の概念を用いると、どうしても「慢」への対処がおざなりになってしまう傾向があるような気がするのです。(ちょうど今日それで「痛い目」に遭って苦しんでしまいました……)
私は出家でも在家でもない身分ですが、どうかアドバイスいただけると幸いです。
自分の納得がいくまで、物事や行いに対してこだわってしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
根っこ
センジョウさま
欲の観察、三毒(貪瞋痴)の観察において重要なのは、その分類や分析ではなくて、その大元、親分の正体を見極めて、そこを対治していくことが大切となります。
いくら枝葉を切っても、根を切らないと解決にならないというところです。
その根っこは、無明(根本的な無知)となりますが、更にその大元は、倶生の諦執、真実執着と言われるモノ・コトへの実体視執着になります。
まるでそれが実体があるかの如くに顕れてくる、その顕れへの囚われとなります。
そのように認識してしまう問題をどう解決していくのか、それに取り組むことで煩悩障と所知障を滅していくことが、仏教においては大事となります。
このように私たち凡夫の誤った認識のありようについては、下記がその理解に役立つでしょうから、ご参考になさって下さいませ。
「お化け屋敷の喩え」(齋藤保高先生)
http://rdor-sems.jp/index.php?%E3%81%8A%E5%8C%96%E3%81%91%E5%B1%8B%E6%95%B7%E3%81%AE%E5%96%A9%E3%81%88
川口英俊 合掌
一瞬ごとの感覚と仏教心理学での分析
を分けて扱った方が良いと思います。
ヴィパッサナー実践しているときは、すべての感覚を一刹那ごとの生滅になるまで細切れにして、次の刹那のものとは分けて扱ってください。何でもいいから感受してそれを「欲」と感じたら、「欲」だけで捨てる。次の刹那も、というか、何秒(何億刹那)も続けて同じような感覚が生じますが、それぞれ、変化するまでは「欲」「欲」「欲」と見ては捨てる見ては捨てるを続けるしかありません。千本ノックとかもぐらたたきみたいなものです。
見て捨て続けていると、「欲」が消えたり(新たに生じなくなったり)、同じ「欲」でも少し感覚が違ったりするかもしれません。そのつど、別のラベリングをして、見ては捨て続けてください。一瞬ごとの変化生滅なので、考える暇などありません。
瞑想の後で、今日の瞑想では……と、しっかり分析してください。
日常生活では、臨機応変にやるべきです。時限付きで何かの用事をしている最中なら、てきぱきとこなし、終わってから、一応、あれでよかったかどうか頭で確認して、いったん終わる。感情とかの分析もその時やればよいでしょう。
時間をかける余裕があるなら(たいてい、ありません)、心が汚れないように丁寧にやる。汚れて消えないなら、分析してみる。しかし、すべて瞬間ごとの生滅なので、過ぎた時間の分までさかのぼる暇はないと思います。
TPOをわきまえて、その都度、適切に対処してください。うまくいかなくても、どうせそれは過ぎ去っています。
質問者からのお礼
お二人のご意見を読んで、改めて己を省みることができました。
そうですよね。あくまで根本にアプローチしなければならないことを忘れていました。
アドバイスありがとうございました。