自分の障害と生きづらさ
私は昔から、短気な性格でした。怒ると歯止めがきかなくなるところはずっと自覚していました。
この性格で苦しみ出したのが、彼氏ができるようになってからです。付き合う人に対して悲しさや怒りを感じると歯止めが効かなくなって、自分でも怒っている時は記憶がなくなるくらい罵倒したりしてしまっていました。その彼からは拒否されるような形で振られてしまい、その後自分は何をしたんだろうと強い自己嫌悪に陥り、自分の存在価値を見失ってしまい、鬱病を発症してしまいました。
その後、こんな私でも大切に思ってくれる、将来のことを考えてくれる素敵な人と出会い、同棲をしました。この人とならずっと一緒にいられる、いてもらえると思っていました。
でも、同棲生活が長くなり私自身も知らぬうちに彼に甘えてしまっていました。段々彼に対して不満を感じた時に止まらない怒りが爆発して彼を傷つけてしまいました。
彼からもう別れた方が良いと提案され、私は全てを失った気がして、強い自己嫌悪に陥っています。
前は鬱病というだけで向き合えませんでしたが、自分は境界性パーソナリティ障害なのではないかと、自分自身も家族に相談しても思っており、治療をしながら原因も病気と分かり、彼とやり直せたらと思っております。
しかし、彼は別れた方がいいという考えで、病気だとなかなか理解してもらえず、性格だと思っています。私が納得するまで急に離れたり拒否することはないから安心して、とは言ってくれますが、同棲解消で付き合いは続けるなど色々提案しても、自分の思っていることや気持ちをうまく伝えてくれず、ずっともどかしい状態が続いています。
彼が居なくなるならば、私はやっと自分と向き合い気づけた障害にも、もう立ち向かって努力できる気がしません。少しでも彼の存在を感じてたい、努力して、癇癪を起こしたりしない想ってくれてたときの自分に戻り、それから彼に別れるかの判断して欲しいと思うのは、わがままなのはわかっていますがどうしたらいいのかわからなくて辛い気持ちのままです。
別れたいと思わせるような事をしてしまった自分自身が嫌で嫌でたまらなく、人を傷つけてしまう自分に今すぐ死んでしまいたいとずっと思ってしまいます。
どうしたら私は病気と立ち向かい、彼に理解してもらえますでしょうか。今は自傷行為をしてしまい死にたくてたまりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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思いという名のマボロシに振り回されてはいけない
あなたの感情に振り回される特性というのは、自分の思いを大切にしすぎるところから来ているのではないでしょうか。
人は、言語や物事に触れると「思い」がふっと湧いてきます。これは言語化されない目に見えない働きです。
この思いを言語化し頭の中で反芻することで勘違いが始まります。
人には「思える」という機能があっても、その思い自体は事実ではないということです。事実とは、目で見たもの、耳で聞いた音、鼻で香ったもの、身体に触れて感じたものです。その事実はその時だけのものです。そしてそこに思いはありません。眼は気に食わないだとか好き嫌いなど言いません。鼻は善悪を言いません。
その事実をありのままに受け取る瞬間があるのです。その0,6秒後に認識作用が働き、思いにより好き嫌いや善悪の判断が出てきます。
あなたは「自分の都合」というフィルターをかませて事実そのままに受け取れない癖がついてしまっているのではないでしょうか。
思いを優先せず、思いは「思っただけ」そっと手を付けないことです。そのうち消え去りますので、目の前のことをすればいいのです。どうしてもイライラしてしまう時は、同じ空間から出て外の環境に徹することです。クールダウンです。そこでも思いを反芻するのではなく、事実に学ぶのです。今、目の前にあるリアルです。今私はパソコンの画面を見ていますが、目の前の様子になりきってください。
思いはマボロシのようなものです。自分自身だと思ってはいけません。騙されないでください。「思い」より「事実」「想像」より「リアル」を信じてください。