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罪を犯してでも生きる意味はあるのか

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有り難し有り難し 11

 初めて投稿させていただきました。
 僕は最近、よく生きなければ生きる意味はないのかなと思ってしまいます。
 芥川龍之介の羅生門では、下人は罪を犯してでも生きる道を選んでました。でも僕は罪を犯すくらいなら死んだほうがいいと思います。
 例えば、世の中の極悪人は生きる意味はあるのでしょうか。実際殺人犯は死刑になる例もあります。
 この例は大げさとしても、僕はよく勉強をさぼったり、学校をさぼったり、信号無視したりと決していい生き方をしているように思えません。
 もちろんよく生きようと努力するときもありますが、やっぱりさぼってしまうことがよくあります。
 そんな自分を振り返っていっそのこと死んだほうがいいかもしれないと思ってしまいます。
 そこで、罪を犯してでも生きる意味はあるのかを教えてほしいです。もし死刑に相当することとそうでないことの線引があったら教えてほしいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、ご自身の質問の内容を整理しましょう

こんにちは。

あなたは深く物事を考える人のようです。
それ自体、とても大切なことです。

しかし、思考は整理しなければ、それは絡んだ思考を更に絡ませる結果になりかねません。

あなたは、文中に「悪」「罪」という語を用いていますが、その定義は何でしょうか。「悪」「罪」とは、法律的、道徳的、宗教的それぞれ定義があります。それは、簡単に整理することが出来ない多くの種類と深さを持っています。あなたは、まず関係諸分野の本等をよんで、整理するべきではないでしょうか。

一例を言うならば、人間は心に「信号無視」を思い浮かべることがあります。
これは、法律的には心に思っただけでは、「罪」になりません。行動に移さない限り。

しかし、道徳的にはどうでしょう。それは「罪」という名称では呼ばないかも知れませんが、そういう心が起きないように、起きても思い直すようにしましょうと考えます。

いっぽう、宗教(ここでは仏教、浄土真宗)ではどうなるか。
いや、そもそも人間は「信号無視」を始め、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思い、行ってはいけないことをするものである。人間は真っ白、プレーンの状態で生まれてくるのではなく、生まれ変わり死に変わりして「悪」(成仏道に反する業、行為)を行い、成仏とは反対の「罪」を引き継いで、息を吐くように瞬間ごとに「悪」と「罪」を重ねていくものだ。「罪悪深重」(ざいあくじんじゅう:親鸞聖人のお言葉)である、ということが人間のスタートなのだ、と考えます。

あなたは「罪を犯してでも生きる意味はあるのか」と問うています。
しかし、仏教の視点で言えば、「罪を犯」さない人間はいないし、犯して生きざるを得ない。さあ、この現状認識からどう仏様と向き合わせて頂きつつ生きるか、と考えます。

あなたは、法律的、道徳的、宗教的あるいはどういう切り口で、どう定義して、どういう自己認識で「生きる意味」を問うているのですか。まず、そこから整理しましょう。

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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

 回答ありがとうございます。
 物事にはいろいろな見方があり、その見方次第で捉え方が変わるということを理解しました。
 見方によって結果が変わるということは、この世の中には絶対的なものはなく、どういう切り口を選ぶかは自分次第なのかなと思いました。
 僕は、こうして生きるべきという明確なものが欲しかったのですが、そういうものは存在せず自分で考えるべきなのかなと思いました。
 少しスッキリしました。ありがとうございました。

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