お坊さんの「生きてていい」と思う瞬間とは回答受付中
「生きていていいのだ」
と、思える瞬間をお教え賜りたいです。
自分は離職中で抑うつ傾向が強く、どこかの支援に繋がる必要を感じますが、上手く繋がることができずにいます。
私は無職で友人もほとんどいませんが、受刑者は常に人目に晒され、酷な環境ながらも必ず刑務所という居場所に所属できることが羨ましく思えます。ですが、犯罪を起こしてまで欲しいものも、暴力的なエネルギーもありません。
それでも幸運に、
hasunohaに出会い、禅の思考や、昔はお寺さんが精神病を治療していたことを知りました。
全ての試練は仏様が与えて下さり、何か意味があると思考を切り替える術も知りました。仏様が味方して下さっていることも。
今私が苦しむのも導きだと思うと救われる心地はあるのです。
ただ、このまま生きていたら、無職で天涯孤独の中年になります。
現状としては上手く就職が進まず、精神病のある母は感情の起伏が激しく今はわがままな小学生のようになっています。
理解していても振り回されてしまい、家族は母の味方なので、美味しいものを食べるようにしたり、犬のぬいぐるみを買ってみたりしました。
希死念慮に追い詰められていることで周囲に助けを求めましたが、多忙だったり「みんなもそう」「我慢が足りない」とのことでした。
これも大人としての自立だと思います。就職できていない責任もあります。
ただ、この先に進むための力になる
「他者のお役に立てている」
「自分が生きていていい」
…そう感じられる機会が極端に少ないのです。
大学で勉強した心理学が好きで、解決法は既に知っているのです。
他者からお力を借りる必要のあるものは、私の頼み方が下手なので、助けの求め方を学んでいます。
「生きていていいのだ」
と、思える瞬間はどんなものがありますか?
実行できるものは試してみたいと思います。
ご多忙の中、お時間頂きありがとうございます。どうか宜しくお願い致します。
都会の喧騒の中でもお寺の空間は別世界のようで落ち着きます。この世に存在して下さることが有り難いです。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分で伝えることも、私に伝えてもらえたことも『私の存在』実感
実感って大切ですし、それが安心や原動力にもなっていきますよね。
私の場合は、「私を求めてくれる存在」が大きいです。例えば、大切だよと言ってくれる人や待っていてくれる場所があることです。
仕事もそうですが、運動をするために毎日通っている場所があります。毎回「こんにちは。ありがとう」と言うと、「またお待ちしていますね」とスタッフから言ってもらえるので、(また来よう)と思えますし、運動をするので気持ちもスッキリします。
また、居場所の会や遺族会を開催しているのですが、「ようこそ、おいでくださいました」と言うと、参加者の方々から「ありがとう。この場所があって良かった。また来ます」とおっしゃって帰っていかれます。(この場所の必要性や、次回も必ず開催して皆さんをお待ちしよう!)と意欲が湧いてきます。
自分から伝えることも、私に伝えてもらえたことも、どちらも「良かった」とホッとした気持ちになり、『私の存在』を実感出来ています。
理解者や笑顔を向けてくれる人は、家族だけとは限りません。些細なことでも繋がりの中で『私の存在』を大切に想える機会を見つけていきませんか。
ハスノハでも、あなたとこうして話をしながら、あなたの温度を感じていますよ。
ご質問ありがとうございます。
これといって「生きていていいのだ」と思ったことは無いです。
寝て起きてご飯食べて仕事して遊んで寝て起きて、気が付いたら生きている感じです。
やりたいこと、やらないといけないことをやっているだけです。(もちろん悪いことはダメですが)
「はたらく細胞」という漫画があります。
生きていていいとか感じる以前に、体の中の細胞たちは頑張って働いて生きています。寝ている間も心臓は働いています。
細胞たちが頑張っているんだから私も頑張って細胞たちが楽になるようにしてあげたいなと思ったことがあります。
生きていていいと自分が思っても思わなくても、他者から言われても言われなくても、細胞たちのために生きたらいいのです。
うつに関しては心理学を学んだあなたのほうが詳しいかもしれませんね。
仕事は専門学校や職業訓練学校に行って何か資格やスキルを身に付けるのがいいと思いますよ。
先ずは焦らず、他者と比べずに、自分は自分の生き方があると思って、ストレスによる脳の疲労を癒してくださいね。
今の1秒間だけ
日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老がどこかで言われていた(おそらく著書になっている)内容で、下記の内容があります。
かいつまんで言うと次のとおりです。
生きるのが苦しいと言っている私達でも、今の1秒間だけ見れば意外にたいした苦痛はない。
今の1秒間だけの苦痛ならけっこう耐えられるので、また次の1秒、さらに1秒とその繰り返しで生きられる。
また、本当に耐えられない苦痛ならばショック死できるので心配無用。
以上です。
以下は私がよく思うことですが、
私達は、悲しいお葬式の休憩時間にでもお笑い番組で笑うことができるのです。
心は無常。
思考や感情は瞬間ごとに浮かんで消えるので、私達は毎秒新しい心、新しい自分に入れ替わっています。
だから、過去や未来についてあれこれ妄想雑念を膨らませることさえしなければ、今の1秒間をお笑いの休憩時間に変えることは誰にでもできるのです。
自己否定も自己肯定も妄想雑念の一種なので、それらを忘れて今の1秒をリラックスすることが良いと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございます。求めてくれるということは、自分から充分に与える必要がありますね。
仕事以外でもそういった場所がある大切さを痛感致しました。今通う場所以外にも目を向けるように心掛けて参ります。
改めて、貴重なご意見を頂きありがとうございます。
(追記)
願誉浄史様
今の一秒だけを見る、という非常に具体的な表現にはっとしました。過去や未来をあれこれ考える、まさにそんなことをしています。
心は無常だと思い、悲しみも引き摺らず過ぎていく一秒を感じるようにします。
新しい知見を学びました。お答え頂き、ありがとうございます。
聖章様
生きる良し悪しを問う事自体が本来は必要がないのだと、目から鱗が落ちる思いです。
それよりも、やることをやる、当然の意識が欠けていました。はたらく細胞は存じ上げております。数万の細胞のためからはじめて、一人でもお役に立てる能力を身に付ける為に頑張ります。
糧にし邁進致します。ありがとうございます。