相反する二面性があったらどう生きますか?
質問失礼します。
また自分とは違う方の声をお聞きしたいなと思いました。
私は普段は安定思考でいつもの日常や生活が送れるといった、いわゆる普通の幸せを求める自分がいる一方で、
内面ではどんな結末であっても構わないから唯一無二の何かをしたいと思う自分もいるんです。
何をするしない問わず存在しているだけで唯一無二ということは理解しているので、何も成せなかったとしても良いという前提です。
人が知り得ない何かを探求したり、新しいことをするとか、いわゆる先駆者的な発想は私にとっては普通で、
私がやりたいことは予測不能なことや理にかなわないことをする人間でありたいんです。
思えばそういうことをした時は損得関係なく1番興奮しました。
それで誰かを不快にさせたり傷付けるとか迷惑を掛けたらただの危ない人ですが、それで喜ばせられたらお互い良いなって思うんです。
ただ我慢とか抜きで安定や普通が良い!という自分も居心地が良いし嘘ではないんです。
おそらく私の二面性の両方を満たせて初めて私の人生は最高に輝くのかなって考えたりするのですが、
相反する二面性があることで迷いやすかったり、両方を満たすことについて何かアドバイスをお聞きしたいです。
思えば私は自分より何かが優れていようと基本他人を特別視しないのですが、過去2人特別視してしまった人がいて、
やはりその人たちも普通ならやらないだろうなってことをやってのけて私を喜ばせてくれた、優しい変態さんでしたね。
本人がその時何を思っていたかなんてわからないし、その人のほんの一面に過ぎないとは思いますが、
多分これを憧れ(それとも呪い?)と言うんだろうなって思いました。
何か後世の人に繋げられたら良いですよね。
欲はありますが、内省している内に外に求めていたものは自分の内側にあると気付いてから生きる燃料になるものがなくなりました。 稀にみんなが何を話しているのかわからない感覚になるのですがわかる方はいますか? 子どものおままごとを見ているような、どうでも良いことに全力投球しているようで、それが可愛くもあり羨ましくもあります。 私の欲は今しかない中でどうしても叶えたい欲ではなく、自分が望むまいと明日があるなら、叶うに越したことはないけれど叶わなくても良い欲です。 大事なのは自分の心に正直であれたか?です(欲があるなら窓を開けていればそれで良くて、あとはいかような結果であれ、自分に嘘を付かなければ清々しいんです)。 最近になって人生の楽しいがわかってきた気がします。 何でも叶う平和って初めは良いですが、長くいると虚無感があるんです。 でも嫌な経験もあるから喜怒哀楽を味わえるというのは、不完全故にできることですよね。 嫌な経験から心に蓋をして強くなろうとしても辛かったのですが、あの時嫌だったよ〜(泣)という気持ちを思いっきり味わって見えた世界です。
自分を自分たらしめるものがあることで考えられる全て(でもそれが良いって思う時もあります)
お坊さんからの回答 3件
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面白い問ですね!
考えるの、楽しいですねー
私は心に「光と闇」「白と黒」が
あったら、両方とも自分なので
先ずは認めて受け容れるように
意識しています。
特に闇
例えば苦手な人がいたとして、
「〇〇だ!」と思ったときに
「お坊さんとして、そんなことを
考えるのはよろしくないのではないか?」と想いを巡らせる。
「だけどお坊さんも人間だし、
善い悪いなんてそもそもないよね?」と自己を統合していきます。
イメージとしてはマーブル模様のような(自己流です)
珈琲にミルクを入れてスプーンでかき混ぜるように、光と闇を混ぜてみる。
受け入れ難いダークな感情、
あえて向き合います。
普通の日常生活や安定と
興奮する変態さはハッキリ分けない方が楽しいのではないかな?
と思ったりします。
どんな自分も自分だから。
全部を並行して楽しむ、どんどん楽しむ。インプットもアウトプットも楽しむ。
後世の役に立つような制作活動ができたらよいなと思っています。
自己矛盾(葛藤)は誰にでもある
自己の中に相反する考えや希望があることは誰にでもあると思います。
痩せたいけどポテチが食べたい、勉強しなきゃいけないけど遊びたいなど。
結局は、メリットとデメリット、自分の能力・体調、コスト、スケジュール、リスク等を比較してその都度判断するしかないですよね。
それは、進学、就職、結婚等のライフイベントにおいても同じです。
私達には欲・怒り・怠け・プライドの煩悩があります。
プライドを満たすために結果を出したいが、怠け心もあります。
やりたいこと(欲)があるけど、その場所には嫌いな人(怒り)があるとかもありますね。
様々な出会いや巡り合わせの中で
拝読させて頂きました。
あなたの心の中に存在する二面性についてあなたが大変興味深く思っておられることを読ませて頂きました。あなたのそのお気持ちなんとなくですがわかる様に思います。お気持ちを心よりお察しします。
あなたの中にも普通に生きたいと思う心と先駆的に生きたいと思う心があるのはある意味自然なのではないかと思います。おそらく歴史上の様々な人物も同じように二面性を持っていたと思います。革命を起こしたり権力者となったりした方々も様々な面を持っていたでしょう。その時代の中で様々な巡り合わせやタイミングや出会いのよって大きく自分の人生を舵を切っていったのかと思います。
ですから誰しもがその様な可能性を内在しているのかと思います。それはあなたの中にもあるのです。
あなたが生きていく中できっとこれからも様々な出会いがありあなた自身の人生を判断して選択なさっていくでしょう。先のことはわからないですけれども、きっとあなたの人生にも大きな影響を及ぼすことがあり、あなたの人生が変わっていくでしょうからね。
あなたがこれからの未来を素晴らしい出会いやご縁に恵まれて心から豊かに充実した人生を歩んでいかれます様に心から祈っています。そしてあなたを心より応援させて頂きます。どうか素晴らしいあなたらしい人生を生き抜いてくださいね。至心合掌
質問者からのお礼
皆さんお答えいただき、ありがとうございます。
いつもの日常を誰かと過ごしたい!という気持ちがありながらも、ワクワクすることというのは人を遠ざけ孤独になるようなことであり、別々のものとして見ようとしていたというのはありました。
そう思うから、そうではないことも思う、ある意味何もおかしなことではないかもしれないですね。
"普通"というものがあるから"変態"というものが生まれ、"自我"があると思うから"自然"というものも生まれる。"時間"があると思うから何かをやりたい!と思う。
あとはなぜ縄文時代の生き方や緑あふれるものを自然と言い、現代の都会を自然とは言わないのか?とかですね。
私たちって気付けば自分で世界を作り上げていて、知らず知らずの内に概念に囚われたモノの見方をしていて、疑うべきはそういう所からかなって最近思うんです。
こういう世界を探求すると、いつかはただそこにあるだけ…という考えに行き着くと思いますが、
私は少し違っていて、"ある"や"ない"でものを見るなら、どちらか片方で見れるなら自然ともう片方でも見れる、つまりあるないどちらも共存する何でもありの世界だと思っています。
以前は人間の感性でモノを見ないことを客観的と思っていましたが、それは"人間の感性がない存在"(例えば空気とか)から見た主観とも取れるなと思っていて、
多分最後は絶対はない!という答えに行き着きそうですね。
1人の時はこうやって何となく当たり前と思っていることを覆そうとしたり、全ての根っこにある思考をいじくることばかり考えて、
それはあくまで人生を楽しむ為とか、私たちの可能性を見てみたいからで、探求そのものは好きというよりただの手段に過ぎないのですが、
おそらく多くの人には私が頭のネジが外れたヤバい人って思うかもしれないですが、1人にでも何か響けば嬉しいです。
単に技術を発展させたり、世間でよく聞くスピリチュアル("ある"もの)を極めるというより、
思考の根っこを疑う(存在の有無とはまた違う"ない"ものを見る)ことで開ける世界もあると思えました。
また一つ気付きを得られた気がします。
温かいお言葉と考える機会をいただき、ありがとうございました。