宗教の記憶に苛まれています
お久しぶりの訪問、質問となります。よろしくお願いします。
表題の話は宗教…と書きましたが、大学時代の親友関係にどうしても悔いがある記憶のことです。
大学入学後に新しい教室を覚えたり、サークルを探したり、最初に仲良くなった友人と回っていった時期のことですが、急に卒業研究を手伝って欲しい上級生に出会いました。
とても地道そうな研究でした。わたしを含めた友人たちに手伝いをたのんだのです。
上級生の話では作業場所がキャンパスよりも遠く離れた町にあるとの事、車に乗せてもらう必要ありました。
そこで私は心理的に抵抗があって遠慮したのですが、友人は応じました。
ところが、その車はある新宗教施設に向かい、そこで入信するまで友人を返しませんでした。
入っていないと本人は言ってましたが、ウソの可能性が高く、大学生活の間あまり勉学が手に付かなさそう、様子はおかしなままでした。
現在はもう関わりがありませんが、私は友人になにか出来ることがなかったかと時々悔やんでいます。
この思い出との付き合い方に何か案をいただけたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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結果論から考えず、整理して考える
こんにちは。
あなたは、「卒業研究を手伝って欲しい上級生に出会」った。
その「上級生」は、あなたを含めて「友人たちに手伝いをたのんだ」。
その「上級生の話では作業場所がキャンパスよりも遠く離れた町にあるとの事」だった。あなたは、「心理的に抵抗があって遠慮した」が、「友人は応じ」たのですね。
あなたは、当時、「卒業研究」について誘われたのであり、その「卒業研究」の場所が遠方であったため断った。友人は、「遠く離れた町」で行われる「卒業研究」を手伝いに行った。その当時は、どこまで行っても「卒業研究」の話だったのです。
結果論から言えば、その「上級生」は二人をだましていた。
あなたは危うく難を逃れたけれど、友人を「新宗教施設」につれていき、「入信するまで友人を返」さなかった。
これは、直接的にその「上級生」の卑劣さをこそ責めるべきです。
繰り返しになりますが、あなたは「卒業研究」を断っただけです。
「友人になにか出来ることがなかったか」と回顧する気持ちも分かります。
しかし、結果論から考えず、整理して考えた方が良いこともあると思います。
その後も、友人は入信していることを認めなかったし、あなたにできることはほとんどなかったでしょう。
また、そのようなマインドコントロールをするような団体のネットワークと洗脳は非常に強力です。
自分の中で整理しつつ、できなかったことはできなかったでよろしいのではないでしょうか。
追記
ご返信ありがとうございました。
回答がお役に立てれば何よりです。
誠実なお人柄だからこそ、自分に何かできたのではないかと悩まれていたのでしょう。そのご心情を察します。
今は一定の心の整理ができたようです。
少しでも心を軽くして頂いて日常に取り組んで頂けたらと思います。
また何かありましたらご相談ください。
質問者からのお礼
ずいぶん昔のことですが、うまく距離の取れなかった事でした。
整理していただけて偏った見方をしていたことに気づけました。
上級生はほとんど詐欺ですが、大学も自由という事で特に対処をとってくれなかったというのがどうしても失望の記憶になっています。
過去の友人と自分のためにも、判断を悔いるのではない受け取り方をしたいと思います。大変ありがとうございます。