人としての生存競争に負けました
生存競争に負けた人間は、勝ち組を引き立たせる役割に無理矢理立たされる訳ですが、そんな状況が死にたい位苦しいです。
負けないように頑張ればいいと言う理屈は通りませんよね?だって、どんなに、努力しても勝ち負けは存在するし、勝ち続ける人、負け続ける人、負けてから挽回して最後に勝つ人、いろいろパターンがある中でも、私は今まで成功体験がない負け続けた人間なので、どうしても前向きに気持ちを持てません。
最近になってまた、自殺をして何もかも忘れてしまった方が楽だと思ってしまいます。
自殺をしても、又何かに生まれては生存競争を繰り返す事に変わりませんが、まっさらな状態で競争を楽しむことが出来ますしね。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
誰かを基準にするのはやめましょう
こんにちは。
これまで何度も回答してきました。
第三者の視点を言います。
あなたは、「生存競争に負けた人間」ではありません。
10代でまだ学生でしょう。
まだ、社会に出る準備期間です。
「勝ち組を引き立たせる役割に無理矢理立たされる」とは、思い込みです。
世間でいう「勝ち」「負け」にそのまま乗っかることは、とても愚かしいことです。
再三言っていますが、誰かを基準にするのはやめましょう。
自分のために生きるべきです。
人生は誰かとの勝負ではありません
拝
それほど負けを確信されながら
勝ち負けに固執しても
苦しみしかありませんよね?
勝ちたいならば勝つためにどうすれば良いか考え行動するだけの事でしょう
なのに何もしないで
不平等を謳われてもそれはただの愚痴です
スポーツの勝ち負けならばいざ知らず
貴方がおっしゃるように
生き方に勝ち負けがつくとしたら
試合終了の時は死ぬ時でしょう
しかし、全てを手放さなくてはならない時
勝ち負けなんて小さな概念は
海の藻屑のようなもの
Macのスティーブ・ジョブズが亡くなった時、大成功者である彼が自分の人生に満足されていたか調べてみてください
それよりも問われるのは瞬間瞬間に、勇気を持って優しさを選択して生きてきたかであり、勝ち負けなんて関係ないのです
強いて言えばそういう慈悲の生きた方の実践者が仏教的には勝ち組と言えるかもしれません
自分が何もできないと
自分が一生負け組と決めつけて楽をされたいと思うのは、これ人間誰しもこうやって堕落しがち
故に大変注意が必要な性だという事です
油断すればすぐ行動を諦め
今のあなたのように出来ない理由としない理由を口にします
これを愚痴というんですね
私はいじめられて不登校、中卒、お金のない家で卒業後は昼も夜も働いておりました
あなたの価値観で見れば当然負け組でしょう
というかあなたの価値観で見たら殆どの人が負け組
考えてみるとそれって大変失礼ですよね
もっと世界は複雑ですし人にはそれぞれ適材適所、役割があります
磨くべきところも違います
ステレオタイプの稚拙な勝ち負け論など手放し
人と協力する道を選んでください
合掌
質問者からのお礼
丸山 晃俊様、釋 悠水様、この度はありがとうございました。