願えば願うほど、手に入らない
タイトルの通りなのですが、
一番達成したいことを望めば望むほど、手に入らないことが続いています。
自分の努力が必要なこと(勉強や受験など)は、一番達成したいことができなくとも次のチャンスで努力を積んでなんとか達成できました。
しかし、自分の努力ではどうにもならないことは、欲しい結果が手に入った記憶がありません。
学生時代の班決めも、一緒になりたくない人ほど一緒になり、大学生時の就職活動では一番入りたかった第一志望には落ち、社会人になってからも、こうだったらいいな、よりも、これは絶対嫌だというものに当たります。
それが今も続いていて、転職活動で一番行きたい、ここで働きたいと思うところほど最終面接で落とされます。
自分の努力が足りないとわかるのであれば、勉強したり経験を積んだり、やりようはあるのですが、面接となると面接官との相性や直感など、自助努力ではどうにもならないところの影響が大きく、どうしようもないなと感じます。
きっと思い込み、考えすぎな面もあるとは思うのですが、どうしても「自分は運が悪い、絶対一番欲しいものは手に入らない」という考えに縛られてしまいます。
逆に、このように考えるから良くないのでは、と思い、そういったことを考えずに挑むこともしてきましたが、結局「一番欲しいもの」は叶わず、結果を見るたびに「ああやっぱり、自分が一番欲しいと思うからだめなのだ」と思ってしまいます。
自分は考えすぎでしょうか。自分はもう何かを求めても無駄なのでしょうか。例えそれが望まないものであっても、私は我慢して受け止めるしかないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
我慢と思わずに、小欲知足を思うこと
拝読させていただきました。
求めるものが手に入らないことを「求不得苦」といい、仏教の四苦八苦の中にある代表的な苦です。
そこで、どうしていけば楽になるのか?という思考転換をしていくことが重要になります。
わたしが今言えますのは「小欲知足」に限ります。
手に入れたいと思う気持ちよりも、健全である自己を客観的に観てみることが必要なことと感じます。
勉強ができてきた環境。仕事がある環境。五体満足であることの有り難さ。などを観ていくということなのですが、ある一定のラインに達しているにも関わらず、まだ求めている自己がいるのかと自問自答してみることで、少し楽になれることもあります。
何事も休憩休息をしながら邁進していくことが大切であり、すべてを失った瞬間に「わたしは何のために、懸命に走り続けていたのだろうか?」と虚無感に苛まされるときもあります。
例えば「蛇口をひねれば、水がでる。」
当たり前と思いながらも、当たり前の中に日本に住む人々は麻痺してしまっていることも多いものです。他国では透明な水がでることなんて夢と思う人々も少なくありません。
あくまでも例えで記しましたが、小欲知足であることで、「まわりを見渡せば幸せがたくさんある」と気付けるものでもあります。
そう思うことで、れいちさんの求める心に満たされている中に求めることは幸せな環境であるのだと捉えていくことが楽にする一つの方法であります。
四苦八苦の中には「怨憎会苦」もあります。これは嫌いな人でも会わなければならないという生きとし生けるものに与えられる因果なのであり、すべての人々にあてはまることなのです。
苦しさや嫌なことが当たり前なんだと原点に思考を置くことで、前に進んでいく思考が「やる気、根気、前向き」な心を作り出すことと思います。
参考程度にしてくださいませ。他の僧侶さまからの返答も参考にしてもらえたらと思います。
合掌
質問者からのお礼
御礼が遅くなり、失礼いたしました。
お答えいただきありがとうございました。
たしかに、振り返れば恵まれていることは多くあり、自分にないものを考えていると、持っているものに目を向けられていないと感じます。
ある視点では自分は贅沢なのだなと思いますし、自分本意の視点ではまだ足りない、もっと必要、と欲張りになっていると思います。
切っても切れない悩みなのだなと思いますし、うまく付き合うことも必要だなと感じました。
今はまだ、自分の気持ちに整理がつかない部分も少しありますが、大きな視点を保ちつつ、悩みがあって当然、どう進むかを考えていきます。ありがとうございます。