読書について
私は読書を少しする人間です。
論語や孟子や、大学も読みました。正法眼蔵随聞記や、歎異抄も読みました。新約聖書は通読はしていませんが、少しは読めるようにはなれました。
私は他にも興味のある本はたくさんあります。山ほどあります。
ですが、多くの本は難しくて読めないです。
例えばエッカーマンのゲーテとの対話とか、ドストエフスキーの小説とか、ニーチェのツァラストゥトラとか興味があります。ドラッカーのマネジメントとかも読めるようになりたいです。
歴史の本とかも。歴史は角川から出てる子供向けの学習マンガを全巻読みましたが、マンガなんですけど、一応内容は歴史だし、覚えようとしたりするため、読むのにかなり時間がかかりました。全巻読むのに1年がかりです。その本だけを集中して読んでたわけじゃありませんが、全15巻ほど読むのに1年くらいかかった気がします。日本史の流れはまぁ少し分かりましたけれど。
私は宗教の本は割と読めるのですが、他ジャンルの文学とか哲学、歴史などは、あまり、読めていません。知りたい気持ちはあるんですが。
ちなみに今、夏目漱石の夢十夜という短編を読んでいます。永日小品という短編も収録されているのですが、一話が3ページくらいで完結で終わるんですけど、読むのに15分くらいかかったりします。まず1度目は流し読みして、2度目に内容を理解しながら読むようにすると、やっとこさ、読めます。難しめの作品だと、3度4度と繰り返し読み、内容を理解しようと頑張ります。
短編ですら、こうですから、長編小説は正直読む気が起こらなくなります。
夏目漱石でさえ、こうですから、ニーチェやらエッカーマンやら、はさらに大変です。
もっと本を読めるようになるいい方法はありますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きた文章を感じること
こんにちは。
以前にもご縁がありました。
司法書士を目指して頑張っているのでしょう。
かなり広範囲の分野を読んでいるのですね。
勉強の傍らここまで多読するのは、時間の使い方を相当考えているのだと思います。勉強家であり、読書家なのだと拝察します。
あなたは、「もっと本を読めるようになるいい方法」を問うていますが、これは熟読がしたい、多読がしたい、或いは多読&熟読がしたい、どのあたりの意味でしょうか。
哲学書などは、一人の哲学者について一人の研究者が一生かけてもし尽せないほどの熟読、分析すべき要素があります。小説家、宗教書についてもしかりです。
これは、私が若い時にあるご法事に参っていた人に言われていたことです。
聖書は、現代語訳してあるから読みやすいし、分かりやすい。
けれどもお経って、漢字ばかりで全く分からない、と。
私は、当時その意見について何となく違和感を感じましたが、うまく言葉で返答できませんでした。
ただ、今になってみるとある程度その違和感の正体がわかります。
それは、文章を読むこととと理解することは別物なのだ、ということです。或いは、その文章の集合体である一つの作品が何を言おうとしているか、という全体像の把握と核心の理解は、表面的に読めた読めないの話ではないということです。
浄土真宗では、お経の文字は数多くあれど、そこに共通している核心はたった六文字、南無阿弥陀仏であると教えられます。逆に言えば、その核心を理解しないでお経を読んでもそれは枝葉末節の理解の集積にしか過ぎないということです。塵を集めても決して宝石にはならない、ということです。
あなたが、今後書物を多読するにしろ、熟読、精読していくにしろ、そこに流れている中心を楽しんではいかがでしょう。文章が生き生きと感じられれば、きっと書物はもっと楽しく読めると思います。
勉強、頑張ってください。
質問者からのお礼
釋住職、回答していただき、ありがとうございました。
ちょっと色々ありまして、心の余裕が、あまりないので、落ち着いたら、回答文を読もうと思います。
回答ありがとうございます。