子どもが欲しい彼氏と欲しくない私
現在、10歳以上年上の方と2〜3年ほどお付き合いを続けています。
お互いに結婚も視野に入れて将来を真剣に考えているのですが、その際に子どもを持つかどうかについて、お互いの意見がずっと割れたままなのです。
私は子どもは大好きですが、自分が産んで育てるとなると話は別だと思っていて、楽しい事や幸せな事も沢山あると同時にそれ以上の大変な事や苦しい事があると思っています。
両親も私をちゃんと育ててはくれましたが、暴力を振るわれる事もありましたし、人並み以上に心を傷付けられる事も多くて、私自身も子どもに同じことをしてしまいそうな気もしています。
更に相当未熟かつ子供で、まだやりたい事もろくに出来ていない、自分の事も出来ていない、満たせていない人間が子どもをちゃんと産み育てられるのか、と自信も覚悟も全くない状態です。(我儘と言われればそれまでですが…)
相手も子どもが大好きで、職場での新人アルバイト指導(高校生など)や、職場の人のお子さんとの繋がりを通じて、自分の子どもを育てることに大きな興味を持っているようです。
また、私と年が離れているので自分が先に死んだ時に私を一人にする事が嫌だという事で子どもが欲しいという側面もあると話していました。
この人となら子どもを育てていけるかもしれない、楽しくて幸せな家庭を築けるかもしれないと思いつつも、やはり上に書いた言い訳が頭に浮かんでしまいます。
相手は年齢的にもそろそろ生殖能力に限界が近付いているので、悩む時間の猶予はあまり残されていなさそうです。
相手の子どもが欲しいという願いだけを考えるなら正直早く別れてあげた方が良いのでしょうが、私はどうしても別れたくありません。
でも私の我儘を突き通して仕舞えば相手の夢を奪い、一生の心残りを作ってしまうことになるでしょう。
私はどのようにこの問題と自分の心に向き合えば良いのか正直分からないです。
問題を直接解決する回答で無くても(最終的には私と相手が考えて解決する物なので)、何か私がそこに向き合い進むためのヒントを頂けないでしょうか。
よろしくお願い致します。
やるべきことをすぐに先延ばしにして易きに流されてしまう 後々その事で大変なことになり、自業自得なのに「もうダメだ」と何も手を付けられなくなってしまう なんでもギリギリにやってしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「子ども」についての溝を具体的に埋める必要性
こんにちは。
まず、前提として確かめたいのは、ご両親に「暴力を振るわれる事もあ」った、「人並み以上に心を傷付けられる事も多かった」と書かれていることについてです。これは、今振り返ってみて心理的、身体的な虐待に相当するものですか。それとも、しつけや叱責の延長上でそこには愛情の裏付けがあったと思いますか。
被虐体験の上での、「子ども」の問題か。
それとも、自分は子供を育てる自信がない、或いは欲しないことの理由づけにこの事項を敢えて出したのか。
第三者には事実は知り様がないことなので、ここをまず出来るところで客観的に確認し、そのうえで「子ども」を考えるのがよろしいでしょう。
文章に現れていないだけかもしれませんが、お二人の「子ども」が「大好き」の内容について具体性が違います。
彼の方は、「職場の人のお子さんとの繋がりを通じて、自分の子どもを育てることに大きな興味を持っている」「自分が先に死んだ時に私を一人にする事が嫌だという事で子どもが欲しいという側面もある」と具体的です。
あなたの場合、彼の具体性に対して文章が少なく、唯一「自分が産んで育てるとなると話は別だ」(漠然としたイメージではない実感として)という見方が書かれています。それは、人様の子供の無邪気さなどには心惹かれる部分があるが、自分の子供というイメージは湧かないし、願望もないというこだろうと思います。それは、被虐体験によるもの、或いは別の理由によるものでしょうか。
つまり、「子供」についてのお二人の具体的イメージ、人生においての位置づけにかなりの開きがある、のだと思います。よって、自分たちの人生において「子供」とは何だろうか、というお話し合いをもっと詰める必要があると思います。
また、最初から親になることに自信を持っている人はいません。
完成されている親が最初からある、のではありません。
すべての親は親になっていくのです。
ご自身の両親に対する厳しい目が、転じて自分が親になっていくときの厳しさにもつながっている。自分でハードルを上げすぎてしまっている。そんな可能性はありませんか(ただ、これは被虐体験がある場合では別の話になりますが)。
いくつか、思いつくままに書きました。
参考になれば。