飼い猫が事故死し、後悔しています
突然の出来事と後悔で整理がつきません。
3日前に飼い猫を外に出し、いつもなら2時間くらいで帰ってくるのに帰ってこず、一昨日市役所にて引き取られていました。無傷でしたが、おそらく事故死だと思われます。
日常的には庭で紐を繋いで遊ばせていました。たまに玄関が空いた隙に出てしまうことがあり、それでもわりとすぐに帰ってきていました。
13年一緒に過ごしてきましたが、同じ布団で寝てずっと一緒に過ごしてた母が今年の8月に他界し、その後父も施設に入所することになり、猫にとっては毎日いたはずの2人が突然いなくなってしまいストレスが溜まってるのではないかと思い、たまに夜少し紐に繋がず外に出してあげるようになりました。
いつもすぐ帰ってくるし、団地で車通りも少ないから大丈夫だろう、という安易な気持ちでした。
まさかこういうことが本当に起こるとは思っておらず、自分の浅はかさに後悔しています。その出した日の夜、ちょっとだけ猫の鳴き声がしました。今にして思うと、ぶつかったときの飼い猫の鳴き声だったのかもしれません。他の猫と威嚇しあってるのかなと、性格的にわりとすぐ逃げる猫だったのですぐ帰ってくるだろうと思ってました。そんな近くにいたのにもし探しに行ってたら救えた命かもしれません。飼い主の責任として命を守ってあげらることもできませんでした。
最近ようやく、淋しいのか私の部屋で過ごすことも増えた矢先の出来事でした。悲しくて悔しくて、まだ数年は一緒に過ごせた未来があったのかと思うと申し訳なくて涙が止まりません。痛かっただろうか怖かっただろうか、寒いところで一晩も過ごさせてしまいどう償ったらいいのかもわかりません。今は天国で母と過ごしてることを祈るばかりです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ご質問ありがとうございます。
お辛いお気持ち、お察しします。
突然のお別れに戸惑うのは人であろうと動物であろうと、大切な存在であった分、悲しみも深いものかと思います。
私が立ち会った葬儀の中では行方不明の気持ちに整理をつけたいという方もいらっしゃいました。
市役所で引き取って最期を見送ることができたのは悪いことではなかったかと思います。
死んだからといって、愛猫さまのあらゆる存在が無になるわけではありません。
私は生身のお釈迦様や親鸞聖人と対面したことはありません。
でも、教えを知ることでお釈迦様や親鸞聖人の存在は私の中に確かに在ります。
ちょっとのお経で鎮まるものでないことは承知してますが、日々の読経の中でらんまる様のご家族のことも念じます。
涅槃経の一節をここに記します。
すぐに受け入れられるだけの軽い生命でなかったからこその悲しみかと思います。半年後でも、1年後でもいいので、この言葉を受け止めてくださるとありがたいです。
『肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれるのは止むを得ない。
仏の本質は肉体ではない。悟りである。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道とに生きている。
だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、私の教えを知る者こそ私を見る。』
愛猫さんを世話しただけでなく、教えられたり、支えられたりしたこともあったのではないでしょうか。
らんまるさまを悲しませるために事故にあったわけではありません。
死に方ではなく、一緒に過ごした日々に恵まれし思い出がこれから歩む人生の糧となることを願います。
質問者からのお礼
お返事頂きありがとうございます。今すぐは受け止められないですが、涅槃経の一節を心に留め思い出と共に残りの人生を生きていこうと思います。本当にありがとうございます。