無限地獄
人には正義がありますよね。
曖昧な言葉ですが確かにあると感じます。
電車内で喫煙した者に勇気を持って注意した高校生、その高校生に腹を立て殴る蹴るの暴行を加えた犯人。
ネット上では高校生の勇気を称え犯人の横暴に憤りを隠せない意見が目立ちます。
このような意見がたくさん出るのは自然なことです。
これは人々の正義感からくるものでしょう。
2ちゃんねるの創始者である西村ひろゆきさんも「頭のおかしな人に対して、正義を貫いた高校生が勇気を賞賛されて、得をする社会の方が良いと思うのですよ。正義の結果に治療費が掛かるなら、振り込みますよー」とTwitterで仰っています。
自分自身もそんな正義が尊重される世の中になってほしいです。
ですが世の中には自分とは相寄れない正義を持つ人々がいます。
お坊様たちも仏教を正しいと思い信仰している以上、その教えに反する者とは相寄れないはずです。
全ての正義が共存するなどありえず、ぶつかれば場合によっては戦うしかなくなる。
これは無限地獄ではないでしょうか。
いつまでも終わりのない地獄。
仏教では執着を手放すことを勧めているので「正義にこだわるな、手放せ」という回答が返ってきそうです。
しかしその考えも執着を手放すことに執着しているとも言えますし、それが原因で新たな争いも起こるでしょう。
この無限地獄は生きている間ずっと続く。
災害や戦争、不況などで環境が悪くなれば尚更。
私はこの無限地獄に耐えて生きていくのが辛い。
死という選択肢が頭をよぎります。
でも死にたくないと思う自分もいる。
生き続けることを選んだ場合、この先どうやって無限地獄を耐え忍べばいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まるで、お釈迦さまが出家されるときのお話のようです。
無間地獄、無限地獄、六道輪廻、一切皆苦。。。。
この世の中は苦しみばかり。
なぜ、理不尽なことばかりがまかり通るのか?争いが無くならないのか?正義はなかなか実現できないのか?、、、、
お釈迦さまは、ある意味、ご相談者さまと同じような思いでいっぱいで、何故、苦しみが尽きないのかと苦しみ、考え尽くし、悩んだ末、出家をする道を選ばれたのだと思います。
ただし、そのお釈迦さまの選んだ道の本質は、国づくりや政治活動、制度を改善するなどのいわゆる「社会活動」ではありません。誤解をおそれずに言えば、有史以来、それ以前も含めて、さまざまな王、国、システム、法などが誕生しては滅亡の繰り返し、まさに苦しみの堂々巡りをしてきたのが人類の歴史です。
お釈迦さまのアプローチは、そのような社会活動、政治活動で苦しみを無くそうとするものはなく、あくまで、人の心の中に生まれる苦しみに対して、「どのように向かい合うのか?」「どうしたら心に生じる苦しみを滅し去ることができるのか?」といったものになります。
お釈迦さまは、苦行修行を経て、その究極の答えに辿り着かれました。
「人は、思うから、思い通りにならない(苦しむ)のであって、そもそも思わなければ、苦しみは生じない」という事実です。まったく身も蓋もないことで、普通の人は簡単にそんなことはできないです。
(これは「四聖諦(ししょうたい)」といって、お釈迦さまが一番最初に説法されたことの、私なりの理解です。)
お釈迦さまのように社会を捨て、出家をして、本当に究極の心の在り方を身に付ける程に求めることは、私たち僧侶も含めた現代社会で生きる人にとってはあまり現実的ではありません。
あくまでその考え方、方向性を理解しながら「心の在り方」を求め、また「社会活動」もその社会にいる一員として臨んでいくという、ハイブリッドな生き方が、大切なのではないかと思っています。
ベタ仏教甘ちゃん仏教も飛び越えて「格外の人」を目指す
私は仏教・人権業界で闇を見てきました。それは私が個人的にそう感じたことです。💀本来であれば救いが見出されるべき業界で地獄。本山に10年もいればマァ業界の裏の裏もみえてしまう。いい勉強になりました。地獄も極楽も人間が作る。鬼を描くも仏を描くも人のなすわざ。救われるべきは世間よりも まず僧侶たちだ、と自分も含めて思いましたよ。医療業界、役所勤務、企業、宗派僧侶…、組織のとらわれ犬になってしまえば個性も自由な働きも潰される。お利口だワン🐶!
ロボットを求める組織では血の通った人間は必要とされない。上手に媚び、上手に尻尾を振る人間が重宝される。どんな世界にもダークでタブーな領域がある。あなたの町や職場にも見えないだけで闇・裏があるヤもしれません。👿人間、そんな世で生きていく上で大事なのは度量。人間性。大きな要求力。「格外の機」。この程度でいいや。世間でいう所のオトナ、世間でいうところの坊さんの理想像とはこういうもんだから、この辺の無難なところをゆけばいいのだ(*´▽`*)アハ、という程度であればそこそこ私も絵に描いたようなベタキャラ坊主を演じる程度でした。今でもまだまだKUSO坊主。誰でも駆け出しのころは規格通りのKUSO坊主。(空相の意か)使いやすいキレイな形をしたどこにでもある野菜は使い勝手が良いというだけで、ちゃんと野菜を作る人から見れば…「食えん」。お笑い芸人でもダンサーでもアーティストでもそうでしょう。そこそこで無難でベタなことをやっている人と「突き抜けた」人とでは( ゚Д゚)ケタ・格が違う。だから禅宗では(# ゚Д゚)「その程度のものになるな!」と格外の人、師匠越えの超師の器となるように導く。皆がロボット人間にさせられるあの国をごらんなせぇ。非道があっても見て見ぬふり、超絶スルー。マトリックスのように身の危険をスルーするなら鮮やかですが、いじめ、非道も超絶スルーって地獄絵図だわね。私はチベット、ウイグル問題や反日ヘイト・エセ人権問題も斬り込みます。そうすると業界では丹下はネトウヨじゃ、と。(笑)私には目の前の人を救うのに社会問題も政治問題も右も左もない。同じ人間や同じ仏教者が焼身自殺抗議して酷い目に遭っていながら見て見ぬふりの人や僧は謎です。そのフリーズこそ地獄絵図。目の前で血を流してる人を助けるのに政治だ社会問題だなんて言っていたら…死ぬよね、その人。
質問者からのお礼
お礼を書くのが遅くなってしまいました。
中村さんの仰る「ハイブリッドな生き方が大切」というのは、まさにその通りだと思います。
お釈迦様はある意味サイコパス的な極端さを持っていますね。
それを噛み砕き、わかりやすく教えてくださるお坊様たちは有難い存在ですね。
丹下さんも個性的な解釈ですが、現実に起きている問題を取り上げることは大切ですよね。
あまりそういったお坊様は少ない様に思うので、とても珍しい回答に思いました。