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死を考え、今の生き方に疑問を感じるようになったハタチです。

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有り難し有り難し 30

初めて質問します。
私はハタチの大学3年生です。

最近、「死とは何か」について深く考えるようなきっかけがいくつかありました。
もとより昔から「死にたい」と気軽に考えてしまう性格で、リストカットをよくしていました。
しかし、最近「死とは何か」を深く考えるようになり、私の中の結論は、「死とは、私が私でなくなること」というところにたどりつきました。
そうすると、どうでしょう。これまで生きてきた私の道のりは、あまりに普通すぎて、生きることの意味が見いだせなくなりました。
つまり、私が私でなくなるその瞬間が来るのなら、大学も、勉強も、恋愛や結婚も、必要ないのではと考えるようになりました。

今私は大学三年生で、半年後にはアメリカ留学も控えています、そのまた1年後には就職活動も控え、そのまた先の40年は働いて働いての毎日が待っています。その先にある死と、今この場で自ら迎える死は、どのように違うのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

たかだか20年しか生きていない者が生意気を言うな

死は一瞬。生きることの方がはるかに長い。
一瞬の出来事の意味を見出すために費やした時間があるはずです。
「生きる」とは何か。死よりはるかに長い生に対しその答えを出すには相当な時間を必要とするはずです。
40年必死に働いて働いて、働き抜いて生きる意味を見出しなさい。そうすれば二つの死の重みがわかります。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

身体的な死とは

死を考えるとまるで迷路に入ってしまったように自分とは或いは生きるということとは、と答えの出ない状況に陥ってしまい考えることや生きることの意味を見出せずに思わず死んでなにもなもなくなってしまいたいと衝動的になってしまいます。
私の今まで40年の中での死に対する見解は、死とはあくまで肉体的な現象であって私という存在は或いは心や魂はなくならない、つまり終わらないということです。また肉体は父母から与えられ多くのものを頂いて今を生きています。ですから肉体は借りもの頂きもので実は決して自分のものではないと思います。そう考えると生きることとはまた全く違った捉え方ができるのではないでしょうか?そして生きる目的はまたそれぞれあるでしょうから自分の生きる目的を考える局面が出てきます。
人生は様々な紆余曲折がつきものです。これからの人生の中で経験なさりながらじっくりと生きること死ぬことを考えてみてはいかがでしょうか?
決して結論を急がないでくださいね!

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おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

死生観を二つの真理から更に理解を進める

リベラ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

是非、死生観を更に仏教的にも深くお考えになられていかれましたら、もっと理解が進まれることがあるのではないかとは存じます。

般若心経には、「不生不滅」という言葉が出て参ります。ここで申しますならば、つまり、「不生不死」ということでもあります。

私たちの本来的なあり方としては、実は「生も無ければ、滅(死)も無い」というものとなります。

簡単には、空なる実体の無いものに、これが「生」だ、これが「死」だと言えるような何かを探して見つけられるわけではないということであります。

一体、何が生きて、何が死ぬというのかということですが、仏教では二つの真理を扱うため、理解するところに色々と難しいものがあるかとは存じます。

最高の究極的な真理としての勝義諦。

世間世俗における真理としての世俗諦。

勝義諦としては、「不生不死」ながら、一方で、世俗諦としては、やはり「有生有死」となります。

死生観について、勝義諦と世俗諦の両方からの理解をしっかりと進められれば、よりリベラ様の死生観の理解も、今はまだ断見、常見のいずれかに偏ってしまわれてはいても、いずれ、中道としてのバランスの取れた理解になるのではないかと存じます。

是非、これを機縁に仏教によりご興味を持って、学んで頂けましたら幸いでございます。

川口英俊 合掌

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