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どこまでが責任か

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有り難し有り難し 14

仕事で、樹脂粘土や石粉粘土などを使って、作品を作りました。

利用者さん達と一緒に作ったので、完成した作品はそれぞれお持ち帰りされています。

利用者さんのお宅で犬や猫などを飼っていたり、小さい子どもがいたりして、粘土やこわれた部品を誤飲してしまったりしたら私の責任でしょうか。。

ヒートンなどの小さい部品も使ったので、その辺の道端などに落としてしまって、野良猫が食べてしまったら、、などと考えてしまいます。
利用者さんの中には、子どももいるので、遊んでいて落としてしまったらなどと考えてしまいます。

考えすぎでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

犬も猫も食べるものを選びます。🍗🐓 大丈夫です。

うちのお寺には小さい頃からニワトリがすんげーいました。その後MAXで100羽超え。小学生の時、おとーちゃん(師)と車で出かけた時に近所の胃腸科外科の前に巨大なニワトリが捨てられていたのです。立派なたたずまいでした。おとーちゃん、そのニワトリ捕まえてました。🐔「どうせ、ここいても畑の野菜食っちゃって駆除されちゃうからかわいそうだから」と。そのニワトリ凶暴につき、通学中にすげー勢いで私を追いかけてくるのです。エリマキトカゲみたく。何度もつんつんされました。血も出るほどに。その時のニワトリの走ってくる光景が何とも言えない光景でしてね。つっつかれてこんな坊さんになっちゃったのです。それも縁。その後👼「あのニワトリ、なんていう種類なんだろう…?」と思うことしばしば。たまたまEテレを見ていたらチキンワイヤーの曲で「ねじねじねじねじ…♪」でそのニワトリが出ていたのです。( ゚Д゚)あいつだ…!。その後、大阪で「奇跡のニワトリまさひろくん」というニワトリのことを知りました。( ゚Д゚)あのニワトリだ!なんていう種類だろう?調べたら「ボリスブラウン」とかいうニワトリでした。沢山いたニワトリは寺に住むタヌキとキツネとハクビシンにやられて絶滅寸前に。山梨に行ったときに有精卵が売っていたので買って近所の「みどり幼稚園」からふ化させるマシンを借りてふ化させました。🐣運命的な出会いが。そのニワトリはやがて大きくなりあの巨大ニワトリに成長し100デシベル越えの声で深夜2時に鳴いています。先日も小屋を抜け出して隣の家の高〇さんちの白菜を食っちまってえらいことに。いろんな意味で我が家の奇跡のニワトリまさひろ君。今日もこうしてあなたや誰かの悩みや迷いをつんつん食ってくれる働きになっています。

さて、孫悟空の話に自分の毛をむしると自分の分身が出てくるというものがあります。
どんなものも自分の行いは自分の分身。でも、あなたの手を離れたものはそれぞれ皆様方の責任です。その人たちが作ったものはその人たちの分身ですから、もうあなたの責任ではありません。あなたもこれをきっかけに自分の妄想や迷いという分身を転じて、みんなを助ける作用・働きに転じてみましょう。童謡もドラマもディズニーもみんな妄想を上手に使ったものです。どんなことも奇跡になるように心の中で「縁を加えて」転じてあげることが大事です。🐣🐔🐓

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。
感謝しております。

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