一生懸命とは
4歳と0歳(1ヶ月)の子育てをしています。
子育てに正解はないとは言われていますが、子供にとって自分が毒になっている存在ではないかと不安です。
お片付けをしなさい、に対して「お母さんに捨てられるから片付ける」という認識、自ら進んで勉強をしたいと言うのでドリルをみるのですが、つい声を荒げてしまい最終的には悲しい顔で終わってしまいます。
やりたい気持ちを削いでしまう親にしかなっていない自分に自己嫌悪です。
子供の勉強をみていると主人にも「なぜ母親の貴女がそんな一生懸命になっているの」と言われてしまいました。
失敗したら私の顔色を伺ったり、頻繁に「お母さん大好き」と言うのですが私からの愛情確認をしたいように思い、愛情不足なのかと戸惑ってしまいます。
公園や絵本を読んでいるときは楽しそうですし笑いのある会話もあります。
躾の部分がもっとやりようがあるのではないか、子供に教える時の力の抜き方がわかりません。
自分の理想を子供に押し付けている、そんな気がします。
どう自分の構え方を修正すれば良いのか道を教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お互いが試行錯誤
こんにちは。私は幼稚園にも関わっていますので、主としてその立場から、まずお話しします。
まず、あなたが推測されている「毒なのではないか」「押しつけなのでは」という予感は、「ある程度当たっています」というのが答えです。しかしね、これはどこの家庭でも寸分違わず同じ。程度が違うだけ。どの親も、我が子に対して刻印を押しているのです。世の中の人は誰もが個性的なのですから、どうしたって偏りがあります。お釈迦様が子育てしたって、当時は王子様だったのですから(しかも家族を足枷と思っていたと伝えられるのですから)、まぁ「理想的な」子育てはできなかっただろうと思います。
なので、まずはご自身を全否定もせず、全肯定もせず(相手は一人前ではないのですから)接して下さいね、というのがひとまずの答えです。
次に、ドリルとかですが。小学校以降と異なり、幼児は「ドリルで学ぶ」ことは非常に困難であると考えています。学ぶのは現物・実物・繰り返しで。ドリルは「定着度を把握するためのもの」です。紙に書かれた・言葉で示されるという抽象的な事柄を扱うには、まだ早いと思います。ドリルで「ああ、この子これが分からないんだ」と把握したら、ドリルの外で学ばせる。生活体験を増やしていけば、必要なこととして学んで行くものです、母国語のように。
たぶん、お子さんはお母さんに気に入られたいのです。自分を見て、褒めて欲しい。ドリルはそのネタになる。大好きって言葉を口にだすことで、そのネタになる。勉強が好き、というのと皮一枚違うのが分かりますか?子どもの健気な想いが。
だから言うでしょう?「できたところに注目して、褒めてあげて」と。間違えた所はどうでも良いのです、「褒める」に繋がらないのですから。間違えた所は直させるでしょう?そこは褒めるポイントですよ、「直せてよかったね」と。「何度やれば気が済むの?」系統は無意味です。答えられない問いだから。
ともあれ、親も子どもも試行錯誤。そのいみでは同じ土俵です。お母さんとして「子どもを喜ばせつつ暮らす」ためにどうしたら良いのか、迷うところでしょう?その不甲斐なさをお子さんにぶつけては、いけませんよ。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
ハッとさせられました。
教育!躾!と肩を張ってできない子供をがんじがらめにしてしまっていました。
ワーク関係はひとまずおいてスキンシップ等から愛情を伝えていきます。