器の大きさとは
私は些細なことが気になったり、小さな事で怒りを覚えたり愚痴も多かったり。もっと器の大きな人間になりたいはずなんですが。
そもそも器が大きいとはなんでしょう。細かいことを気にしない、鈍感な人が器が大きいとは思いません。何でも許す寛大な人っていうのも違う気がします。
お考えがありましたら是非、お教えください。参考にさせていただきます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分の器をわかっていること
そうですね、確かに言葉として「器が大きい」とは聞きますが、厳密にはどういう人の事なんでしょうね? おっしゃる通り、鈍感な人や寛大な人=器が大きいではないような気がします。
私自身は些細なことが気になり、すぐ腹を立てたり愚痴を言ったりと器の小さな人間なのですが、一度「器が大きい」と似たようなニュアンスのことを言われたことがあります。
それは後輩に対して「私はあなたのこういった部分を尊敬しているよ」と言った時でした。
素直に「スゴイな、尊敬出来るな」と思ったからストレートに伝えたのですが、彼は驚いたようです。
後輩や同年齢に対して尊敬の念を示すのは、相手が自分より優れていると認めることですから、それは自分の能力の低さを認めることです。
しかしそれが「器が大きい」と認識されるのでしたら、器の大きさと能力の高さはイコールにはならないのでしょう。
タイトルにも書きましたが「自分の器の大きさをわかっている」ことがひとつの条件かもしれませんね。
いかがでしょうか?
大きさとは、受いれてきた軌跡
地下室のメロディーさん、こんにちは。
加島祥造さんという方が、
「受いれる
すると
自分の心が
意外に広いと気づく
心が広いから
受いれるんじゃあないよ
受いれると
広がるんだ」
ということをおっしゃっています。
いい言葉だとぼくは思います。
この言葉のなかの、器、とはどういうものでしょう。
受いれることで小さい器から大きい器になっていく、という方向性があるようです。
また、いきなり巨大なものを受いれようとすると、器が割れてしまうかもしれませんね。
そして、器がひろがったからと言って、それがどういうことか・・・について言及されていません。
器が大きいとは。
受いれることで器がひろがった結果です。
・・・1+1は?と聞かれて、1+1ですと答えたようになりましたが、大きさについて言及することはないようです。この言葉の上では。
ただ、「何を受いれる」がポイントになるかと存じます。
「器が大きい」という言葉をきくと、大きいことはいいことだ、懐が深いとすごいよね苦労してきたのかな・・といった印象を持つかもしれませんが。受いれるにもキャパシティがあるようです。
キャパを超えるものを受いれざるをえないとき、楽勝だと思っていたら器のなかで大きくなっているとき。無理するときも必要かもしれませんが、取り返しのつかないことになる恐れもあるようです。
「器が大きい」とは、なにものかを受いれるとき、受いれられるほどの器を持っている・・ということでしょうか。
また、大きければいい・・わけでもないのは、地下室のメロディーさんはご存知のようです。
”些細なことが気になったり、小さな事で怒りを覚えたり愚痴も多かったり”しながらも、受いれているのではないでしょうか?受いれなくてもいいことも、あると思いますが。
なりたい自分になれるといいですね。
以下、加島祥造さんについての参考リンクです。
http://kajimashozo.com/
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784093882491
質問者からのお礼
浦上さま、向井さま
親身なご回答大変感謝しております。改めてお坊さんって人生というか生きるためのアドバイスがとても参考になり、偏った視点ではなくさまざまな視点からのご回答でためになるなと思います。
さて、器の大きさですが、キーワードとしては受け入れる寛大さと受け入れなくてもいいもの、自分で現状の器をわかっていることがポイントということですこし気張らずに楽になれました。大きさにこだわるのではなく、理解すること。しかも自分のペースでというか。
私は強く無欲で優しいようなそういう大人を目指していたはずなのにいつの間にかずるい大人になっている。のわりには細かいことで怒りを覚えたり、当事者じゃないはずなのに自分のことのように思えて小さいことに怯えたり怒ったり愚痴を言ったり。これからはそうした大きさという言葉に縛りに縛られることなく、ストレートに今の自分のペースで受け入れることが大きな優しさなのかなとご回答を見て感じました。受け入れなくていいものは受け入れないって考えるととてもいいですね。