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大切な存在について

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

お釈迦様は、大切な存在が辛い思いをしたり、見送らねばならないとき、どんなふうにとらえたのでしょうか。

大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか?

命あるものだからこそいつか、と頭ではわかります。
また、生きていくことは喜びも多いけれど苦しみや辛いことがおおいから、楽になれるのだとも思います。

見送らせる側は、相手を悲しませるから罪になるでしょうか?
また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。

今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。
でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。

わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。
でも、相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。

お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。

2022年7月24日 22:08

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

にこ様、こんにちは。

>大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか?

執着にとどまってしまう場合もありますけど、執着を超える場合もあると思います!

執着を超える場合、というのは、仏さんや菩薩が、わたしたち生きとし生けるものへ思う「慈悲」の心、いつかはみんな誰しも、仏になる日がくるのだ、という「願」ですね。このような心を持ち合わせると、

>また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。
>相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。

この問いへの、回答にもなります。つまり、執着を超えて、相手の苦しみを知って、きれいな心でもって、相手への慈しみの心を起こしているとき、見送る側(自ら)も、苦しみを離れていきます。

>わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。

これは、大事な観点だと思います。にこ様が、にこ様自身を大切にされるということは、にこ様自身にとっても、あなたの周りの人にとっても、善いことだからです。また、にこ様自身が、辛い心境になることそのものが、誰かを幸せにするということも、ありません。仏教は、自分を大事にするための教えでもあります。

>今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。
>でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。

そうですよね、その感謝の気持ちも、弱る姿をみて悲しむのも、にこ様にとって、必要な時間である気がします…。

>お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。

相手の方が、今後、どのような道を歩まれるとしても、道中にどんな困難や苦しみがあったとしても、最終的には必ず安楽にいたりますように、と、このようにきれいな心で祈ると、段々と、お釈迦様とその弟子たちのような、心と、言葉と、身体になってくるかと思います。

今後、にこ様が、そのような悲しみと苦しみを超えて、にこ様自身、ならびに、にこ様の身近な方々に、安楽の道が開けるよう、お祈りします。

【追記】
にこ様
回答を読みました!すばらしい…!次から次へと法があふれてきていますね~~~\(^o^)/

2022年7月25日 11:40
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有り難し
おきもち

菩薩になりたいです。 仏教は、ほんとうにすばらしい教えだと思います。...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

執着を超える場合もあるとのお言葉、とてもうれしかったです。
いろいろと感じて考えて苦しくなるより、ただただ相手のことを想い、相手の心の平穏を願う方へと気持ちを向けていければ、確かに私も気持ちが楽になると感じました。

勝手に相手のことを想像し、自分で自分を追い詰めていたところがあると思います。
相手のことを想うことが、自分を大事にすることにもつながるというのは、こういうことなのかと、目から鱗が落ちた思いです。

ありがとうございます!

ありがとうございます😊
相談に乗っていただけたおかげです!

昨日、大切な子が旅立ちました。
この子の心の平安をただただひたすら願いました。
家で看取ることも考えたけれど、どう身体をきれいにしてあげればいいか、また、ちゃんと確認ができないのではないかと思ったり、怖い気持ちがありました。
昨日が通院日だったのですが、通院しないで家で枯れるようになくなれるよう見守るか迷っていたら、この子がそれまでたべなかったのにごはんに興味を示し、食べたいけれど食べられない様子を見せてくれました。
それで、じゃあ病院に行って治療をしてもらおう、と思えたんです。
そうやって通院をして、この子に負担はかけず、苦しんだり痛い思いをしたりしないように。万が一のときも苦しくないのなら無理な蘇生はしないと先生と話し、入院となりました。
夕方お見舞いにいき、それから数時間後、呼吸が弱くなりとまりました。
わたしがつく10分ほど前だったそうです。

全くではないだろうけれどそれほど苦しまず静かに呼吸が止まったので、蘇生措置はしないでいてくれたとのことでした。

もっと急げば…と思う気持ちと、苦しい様子を見せないでいてくれたのかなとも思います。
考え得る中で、一番一番優しい、わたしがわたしを責めずにいられるようにしてくれたんだと思いました。

次々涙は出てくるけれど、寂しいというより、愛おしい、愛おしい。
ただただ、愛おしくて、優しくて、たまらなく愛おしいです。

荼毘に付さなくてはいけないのは少し寂しい気持ちもありますが、体を無理に残すのも、よくないのだろうなと思います。

相手の心の平穏を、ただきれいなきもちで願うこと。それを教えて頂けて本当によかったです。
ありがとうございます。

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

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はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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