大切な存在について
お釈迦様は、大切な存在が辛い思いをしたり、見送らねばならないとき、どんなふうにとらえたのでしょうか。
大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか?
命あるものだからこそいつか、と頭ではわかります。
また、生きていくことは喜びも多いけれど苦しみや辛いことがおおいから、楽になれるのだとも思います。
見送らせる側は、相手を悲しませるから罪になるでしょうか?
また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。
今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。
でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。
わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。
でも、相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。
お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
にこ様、こんにちは。
>大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか?
執着にとどまってしまう場合もありますけど、執着を超える場合もあると思います!
執着を超える場合、というのは、仏さんや菩薩が、わたしたち生きとし生けるものへ思う「慈悲」の心、いつかはみんな誰しも、仏になる日がくるのだ、という「願」ですね。このような心を持ち合わせると、
>また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。
>相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。
この問いへの、回答にもなります。つまり、執着を超えて、相手の苦しみを知って、きれいな心でもって、相手への慈しみの心を起こしているとき、見送る側(自ら)も、苦しみを離れていきます。
>わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。
これは、大事な観点だと思います。にこ様が、にこ様自身を大切にされるということは、にこ様自身にとっても、あなたの周りの人にとっても、善いことだからです。また、にこ様自身が、辛い心境になることそのものが、誰かを幸せにするということも、ありません。仏教は、自分を大事にするための教えでもあります。
>今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。
>でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。
そうですよね、その感謝の気持ちも、弱る姿をみて悲しむのも、にこ様にとって、必要な時間である気がします…。
>お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。
相手の方が、今後、どのような道を歩まれるとしても、道中にどんな困難や苦しみがあったとしても、最終的には必ず安楽にいたりますように、と、このようにきれいな心で祈ると、段々と、お釈迦様とその弟子たちのような、心と、言葉と、身体になってくるかと思います。
今後、にこ様が、そのような悲しみと苦しみを超えて、にこ様自身、ならびに、にこ様の身近な方々に、安楽の道が開けるよう、お祈りします。
【追記】
にこ様
回答を読みました!すばらしい…!次から次へと法があふれてきていますね~~~\(^o^)/
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
執着を超える場合もあるとのお言葉、とてもうれしかったです。
いろいろと感じて考えて苦しくなるより、ただただ相手のことを想い、相手の心の平穏を願う方へと気持ちを向けていければ、確かに私も気持ちが楽になると感じました。
勝手に相手のことを想像し、自分で自分を追い詰めていたところがあると思います。
相手のことを想うことが、自分を大事にすることにもつながるというのは、こういうことなのかと、目から鱗が落ちた思いです。
ありがとうございます!
ありがとうございます😊
相談に乗っていただけたおかげです!
昨日、大切な子が旅立ちました。
この子の心の平安をただただひたすら願いました。
家で看取ることも考えたけれど、どう身体をきれいにしてあげればいいか、また、ちゃんと確認ができないのではないかと思ったり、怖い気持ちがありました。
昨日が通院日だったのですが、通院しないで家で枯れるようになくなれるよう見守るか迷っていたら、この子がそれまでたべなかったのにごはんに興味を示し、食べたいけれど食べられない様子を見せてくれました。
それで、じゃあ病院に行って治療をしてもらおう、と思えたんです。
そうやって通院をして、この子に負担はかけず、苦しんだり痛い思いをしたりしないように。万が一のときも苦しくないのなら無理な蘇生はしないと先生と話し、入院となりました。
夕方お見舞いにいき、それから数時間後、呼吸が弱くなりとまりました。
わたしがつく10分ほど前だったそうです。
全くではないだろうけれどそれほど苦しまず静かに呼吸が止まったので、蘇生措置はしないでいてくれたとのことでした。
もっと急げば…と思う気持ちと、苦しい様子を見せないでいてくれたのかなとも思います。
考え得る中で、一番一番優しい、わたしがわたしを責めずにいられるようにしてくれたんだと思いました。
次々涙は出てくるけれど、寂しいというより、愛おしい、愛おしい。
ただただ、愛おしくて、優しくて、たまらなく愛おしいです。
荼毘に付さなくてはいけないのは少し寂しい気持ちもありますが、体を無理に残すのも、よくないのだろうなと思います。
相手の心の平穏を、ただきれいなきもちで願うこと。それを教えて頂けて本当によかったです。
ありがとうございます。