サイのツノ
犀の角のようにただ独り歩め。
という言葉が私はなんとなく好きですが、これって自分の我を通したり、孤独に生きろという意味ではないですよね?
最近、趣味のテニスでも仕事でも、周りと協力しないとうまくいかないとようやく感じるようになりました。我を通してるだけでは自分もうまくいかないし周りにも迷惑かけるのを体験してきました。犀の角のようにただ独り歩め。というのは一見周りを見ないで自分のやるべきことをやれというのを感じます。間違ってない気はするのですが、冷たい人、思いやりのない人、とっつきにくい人そういうイメージになりそうです。というか私が今、こうなってる気がします。
なぜこのような言葉をブッタはおっしゃったのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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これは独覚の詩なので
まだ悟りの境地が分からない私たち凡夫はいろいろ解釈してしまうと思います。
独覚とは師匠なしに一人で悟り、しかし人に的確に悟りに至る方法を教えられない解脱者のことです。独覚の悟りそのものはブッダや阿羅漢の悟りと同じく、煩悩が滅し、智慧が現れているのですが、第三者に教えるということはまた別の能力が必要で、それがなんとか一人で悟った独覚にはないので、一人のための悟りという意味でも独覚と呼ばれます。
ブッダが現れた後はみんな弟子になって阿羅漢に悟り、後進を育てることができます。つまりこれはブッダが現れる前に独覚たちが唱えていた詩を、悟りの詩だと見抜いた仏教のお坊さんたちが保存したと考えられます。
一人歩めと唱えられていても、悟りの境地からは、我を張るどころか、我がない境地ですので、一般的には、協調しながら歩めという意味だと思います。
また、我を張って協調できずに一人になると寂しいものですが、悟ると、一人のほうが楽なようです。
ついでに言えば、パーリ語原文は「歩め」と命令形ではなく、「歩むものだ」と自然の流れでそうなるというふうになっています。我がなくなって悟れば誰といても協調でき、一人でも平気で、そういうふうに我を減らして悟りに近づく生き方を励もうというふうに仏教では見ています。
質問者からのお礼
なるほど、凡夫にはなかなか理解しにくい境地なのですね。
それに近づけるように精進していきたいです。ご回答ありがとうございます