釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます
人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。
お釈迦様の説いた教えについて質問です。
最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。
その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。
しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。
スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。
しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?
私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか?
また怒りや嫌悪についても疑問があります。
スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。
しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。
例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか?
自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか?
他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。
悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
責めるより慈悲のまなざし
こんにちは。質問文拝見しました。
本来なら質問をひとつづつ丁寧にたどり、回答すべきところ、質問がたくさんあり、回答できる字数にも制限があるのでご容赦ください。
父、母に必要な条件はなんでしょうか。
酒に溺れること、暴力的なこと、無益な殺生をすることが親らしいこと、仏教がすすめる親の態度とは思えません。
親としてふさわしくない一面、仏教ではすすめないことを取り出して怒り、責めても矛盾が生まれるのは当然です。
どっぽ様の父母に親としての要素が備わっていない。
親として不十分な存在と、自分に都合の良い理想の親とのズレが葛藤を生み出し怒りにつながる。そんな気がします。
ご両親が『私は悟った。暴力や怒りへの執着を手放した』と宣言されたならまだしも、仏教を盾に父母を責めても未熟さからの卒業は期待できません。
ですから悟ってない人の至らない点に従う必要はないです。
どっぽ様は、酒に溺れることに従う必要もなく、暴力に従う必要もなく、無益な殺生に従う必要もないですよ。
酒や暴力への対応は精神科医療。
老後の面倒は介護制度。
との連携をオススメします。
ただ、貴方さまのご両親から酒と暴力を除いたら、何が残りますか。
本来従うべき親としての尊さが見出せないなら、手本は他から学ぶべきです。
生みの親、育ての親、生き方の師匠。
必ずしも一致しません。
>自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか?
美徳とは思いません。
何も感じないは見て見ぬ振り、学習性無力感に至ります。
弱者への態度に対して怒りや苦しみ『以外の思い』をもつことは大事だと思います。
思いやり。先意承問。
相手は何で不当な傷つけという手段でしか自身を表現できないのか。
敵意を向ける人の売り言葉は買うのでなく、何で売ろうとしてるのかが私は気になります。
その視点を言葉にしたり、行動を理解するには時間がかかるかもしれません。
相手の攻撃性の根底に甘えたかった人へ甘えられなかった絶望や、守ってほしい人に守られなかった失望が感じられたときは悲しく感じます。
そして、慈しみを補うべきかなと思います。
強者への怒りよりも弱者へのフォロー。
ブッダのことばには確か象の例えもありましたね。
怒りに費やしたエネルギーを祈りと願いに転じてください
『遠離(おんり)』。
どっぽさん、こんにちは。
浩文(こうぶん)です。
いわゆる初期仏教に関しても
まだまだ理解の浅い私ですが、
だからこそどっぽさんの疑問を興味深く思うところもあります。
血縁に関する矛盾は
前者が出家の道を説くのに対し
後者が在家の道と説く、という一応の答えがあります。
どちらも煩悩を抑える善い行為として、それぞれの道で推奨されている行いとみれば「ああ歩む道によって行う方法が違うのだな。」と理解できるでしょう。
それとは別にご質問全体を見ますと
ちょっと色々と混乱されている部分があるかと思います。
『なぜ父母に限定して言及したか』
お釈迦さまは家庭を捨てた人ですから、教えを乞う人のなかには、
『私は家族を尊敬しています。お釈迦さまのように家族を捨てなければなりませんか?』と言う人もいたでしょう。
お釈迦さまでしたら
『それぞれにふさわしいやり方で教えを実践すればよい』と仰ったと思います。
どっぽさんのような方に対しても然り。
お釈迦さまでしたら『色んな家族があるから、家族といえども特別ではないよ。
なにか特別なものと思うと余計苦しくなるよ。』みたいなことを仰ったと思います。
どっぽさんでも誰でも
怒りや嫌悪が起きるのは自然のことです。
問題なのは起きたことについてあれこれ『なまぐさか』とか、
起きないことについては『美徳なのか』と、すでに粘着質になっていることでしょう。その粘着状態を仏教では“煩悩”と呼んだのです。
欲求に対して粘着になるな。
まずは離れてよく見てみなさい。
というのがお釈迦さまの“遠離”の教えです。
どっぽさんのお悩みは
現実にご自分が抱えている状況、問題と
スッタニパータの教えのすばらしさとのあいだにギャップがあることだと思います。
このあいだを埋めることは容易ではないかもしれません。
きっとつらいことと思います。
でもつらくなったときは
先ほどの“遠離”のことばを思い出してみてください。
両方に粘着せず
スッタニパータも、自分自身の所感も
それはそれ、これはこれ、と割り切って
ゆっくり整合性がつくまで学んでゆかれますよう願っております。
『ブッダが説いたこと』(ワールポラ・ラーフラ著)岩波文庫
おすすめです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
三塗の黒闇開くなり
あなたの心が文章を飛び越えて、答え合わせよりももっと本当のことを私にぶつけてくれました。まずはそのことに感謝申し上げます。
私は最初、相談者様は仏教の質問をしにきたと勘違いして回答を書き続けていました。でも、全然しっくりきませんでした。
それもそのはずです。相談者様はここに答え合わせをしに来たのではないのですから。
端的に言います。
「お釈迦様の言葉にあなたはひどく傷ついた。」
それがあなたがここに来た理由です。
荒れ狂う嵐の中で、頼りなくも頼もしい小さな囲いとなって、あなたが避難する場所をつくってくれたのは、他でもない怒りと嫌悪でした。
説明不要にして問答無用。誰にも分かるはずがない、分かって欲しいとかいう次元でもない、あなたの尊厳が傷つけられたのです。分かる分からないの問題じゃありません。そうです。仏教は分かった分からんの世界ではないのです。あなたの闇が開かれたこと、それが仏教との出あいだということです。
そして、お二人の回答者様がすでに真正面から応えてくれました。
学べば学ぶほど、分かることの感動があります。しかし、分からないことの方が教えを開くこともあるということをお三方の言葉を通して教えられたように思います。
答えを学ぶのではなく、問いに学ぶということを改めて考えさせられました。
まとまりのない文章、お許しください。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
これからもよく考えて精進したいと思います。
本の情報ありがとうございました。
読んでみます。
スッタニパータといえどもお釈迦様が直接私自身にかけた言葉ではないので執着するのは良くないですね。
まだ自分は道の途中なので未熟で迷いは沢山ありますが、自分を頼りに犀の角のように求道していきたいと思います。