お釈迦様は、大切な存在が辛い思いをしたり、見送らねばならないとき、どんなふうにとらえたのでしょうか。 大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか? 命あるものだからこそいつか、と頭ではわかります。 また、生きていくことは喜びも多いけれど苦しみや辛いことがおおいから、楽になれるのだとも思います。 見送らせる側は、相手を悲しませるから罪になるでしょうか? また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。 今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。 でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。 わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。 でも、相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。 お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。
こんにちは。「葬式仏教」批判についての質問です。 時々ネット等で「お釈迦様は葬式をしたりお墓を作ることを否定した。だから日本の仏教は本来の仏教からかけ離れている。」といったコメントを見かけますが、お釈迦様は本当に葬式やお墓を作ることを否定したのでしょうか? この話の根拠とされる涅槃経(現代和訳)を読んだのですが、お釈迦様は自身の葬式について非常に細かく指示をだしており、さらに「遺骨は塔を作ってそこに収めよ」などお墓を連想させる記述もあり、少なくとも葬式やお墓を否定しているようには思えませんでした。 以前からこういった「日本仏教は本来の仏教じゃない!」といった批判に疑問を抱いていたので、この場をお借りして質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか? 私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。 例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。
お釈迦様はたしか何人も妻がいたそうですが、複数の女性を愛することは仏教的にどう考えられていますか?仏教の教えでも悪なのですか? 日本では複数の女性を愛することは大悪とみなされていますが
はじめまして。 私には少し難しいので、こちらでご質問させていただきたいと思いました。 私事なのですが、仏教アートに触れる機会がございまして、関係者の方に、「先のイベントまでに好きなお釈迦様の手の形を一つ決めておいて下さい」と言われました。 あまり仏教には詳しくないものですから、調べてみても様々なお釈迦様の手の形があることにまず驚くばかりで、決めかねております。 もしよろしければ、アドバイスをいただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。
どの宗派を信じてると言ったほうがいいですか? もしも、何を信じてると聞かれたとき、 説明できないと困ってしまいますので 無宗教なので、別に心配する事ではないのですが、、、 日本人なら、仏教もしっておかなくてはいけないなと思いました。 たくさん宗派があるので、全てを見るのは、無理がありますので おすすめの宗派、ブッダにちかい教えをしてる方がいましたら、ぜひ教えていただきたいです。
ハスノハで質問の答えを見てみるとお釈迦様は王子様ということがわかりました。 そしてこう考えました、お釈迦様は一度くらい肉を食してのではないのかと。 もしかして五戒を守れた人っていないんじゃないかと思いました。 お釈迦様に失礼だと思いますがどうでしょうか? 本当に五戒を守れた人っているんでしょうか?
人にイライラせず、嫌味を言われてもビクビクせず、人に優しく、常に心穏やかにいられるにはお釈迦様のように修行しなければなれないでしょうか? 社会人になってから色々な経験や仕事をしてきて、少しずつ成長してきたなと思えますがまだまだだと感じます。 何かアドバイスを頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
本当なら今頃は無事にお釈迦さまの弟子になっているはずでした。 なんで息をしてるのか疑問です。 お釈迦さまは、まだ、もっと苦しめとお思いなら何が救いのみちなのか分かりません。 もう、また死ぬ気力さえ残っていません。 お釈迦さまは残酷です。
私は「聖☆おにいさん」というブッダが出てくる漫画が大好きなのですが、愛読されているお坊さんいらっしゃったらこの質問に目を通して頂けたら嬉しいです。 作中で梵天と帝釈天が出てきますがブッダに対して「シッダールタ」と悟る前の名前で呼び、ブッダは敬語を使っています。シッダールタ時代に苦行している時にも「おー、頑張れよー!」とか言っていますよね。ブッダをプロデュースしてるみたいな場面も沢山出てきます。 私は手塚治虫の「ブッダ」も読んだのですが(フィクションもだいぶ盛り込まれているようですが)、その中で梵天はシッダールタの前にここぞという時に現れるので(迷っている時や悟った時など)、シッダールタの背中を押す師匠のような存在、と思っているのですが、 梵天や帝釈天はそもそも人間ではない存在なのですか? シッダールタが誕生する前から存在してるという事ですか? この漫画は私の仏教への興味を広げてくれた大好きな作品です。 初歩的な事と思いますし、ネットで調べればすぐ出てくるのでしょうが、ハスノハという場所があるのでお坊さんに質問してみようと思いました。 (帝釈天のスーツはアルマーニ、梵天のスーツはコナカというのはツボです)
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。 回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。 重要な問題なので、再度質問を立てます。 我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。 「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 との金剛般若経の引用をしています。 輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。 そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。 金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。 釈尊の語りですから、これは真実なのです。 これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか? 因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。 詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
ブッダの教えを一言でまとめると何ですか? hasunohaや本で読んでもイマイチピンとこないというか、分かりづらいというか、自分でまとめてもモヤモヤするので質問してみました。
(質問:ブッダの教えの追記) (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47023?page=1)より ここに書かれている内容は、本当に正しい事なのですか?
家庭の問題や仕事の問題で精神に苦しい状態ですが、御サイトにてアドバイスを頂戴したり、同様の質問に対してのアドバイスで助けられております。 ありがとうございます。 その中で、お釈迦様の教え、仏教について非常に助けられておりますので、もっと知りたいと思います。 そしてお釈迦様の教え、仏教について学びたいと思いました。 お釈迦様の教え、仏教について学ぶ方法をご教示頂ければと思います。 市販の書籍や仏教系大学の通信課程、近隣のお寺等で学べますでしょうか? 市販の書籍についてはおススメの著者、書籍がありましたらご紹介頂きたくお願い致します。
知識がないのでもし勘違いがあれば訂正して下さい。また仏教に悪意があるわけでもなく単純な疑問なので教えてください。 仏教の開祖であるブッダはある時妻子を捨てて、真理を探究する旅に出て苦難の末悟りを開いたのだと思いますが、出家して出て行ったブッダには妻や子がいたかと思います。現代的にはある意味妻子を放り出して勝手に出て行った感じだと思うのですが、そう言う方を開祖とする仏教という宗教が、「家族や祖先や人との縁を大事にしなさい」言うのになんとなくもやっとします。簡単に言うとやってることと言ってること違う?みたいな感じです。 仏教の教えを学んだお坊さまはそのようなことを疑問に思ったりしませんでしたか?それとも家族である妻子を放り出しても良いくらいの価値がある教えを見つけた人だからそれくらいは許されるとお思いでしょうか?
①毎日荷車を引く牛は、「どうしてこうも辛いんだ」と荷車を壊したら、飼い主はさらに重い鋼鉄製の荷車に変えたという話を読みました。 それによって、お釈迦様は、「辛いからと逃げて死んでも、死んだ後はもっと辛い世界がある」といい、死ぬことを考えていた人は思いとどまって幸せな人生を歩んだと書いてありました。 でも、そこで私は、「死んだあとはもっと辛いんだから、せめて今を楽しみなさい」ということ?と思ったんです。 このお話は、未来に希望が持てないと感じてしまうのですが、どう解釈するのが正しいのでしょうか? 私は旦那からひどいことをされ、ケンカをして謝るもまた同じことをされ、期待しては裏切られ、期待しては裏切られの繰り返しです。 謝られても、今ではそこで許すこともできないものがたくさんたまり、ふとした瞬間に思い出しては苦しくなります。 許すこと、流すことができれば、楽になるんだとはわかっています。 けれど、信頼して裏切られることを繰り返し、謝るのも早く話を終わらせるためでしかないとわかり、旦那の言葉を信じられません。 信じれば苦しくなるし、信じないで警戒している方がダメージが少なくなると思います。 でも、そんな毎日は楽しくないし、だからこそ他の幸せな関係を築いている人を妬んでしまいます。 ②許すことができなくなってしまった私は、どうしたら幸せになれるのでしょうか。
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