こんにちは。 とても前に自死を考えるほど悩み苦しんでいたときhasunohaを知り本当に救われ、またそれから仏教的な考え方が好きになり浅はかではありますが自分なりに勉強しております。 お坊さまなど皆、お釈迦さまのように悟りを得るために日々考え、生き、修行なされてると思いますが、それで、自分が考えれば考えるほど思うには、この世で悟りを得たのは釈尊のみで(仏陀の一人とも書かれているので他にもいらっしゃるのでしょうか…)人間がいくら考え修行しても悟りの境地になど到達できるはずもなく、それではなんのために修行し生きると言うことになるので、太古に実際に悟りを得た人が一人だけいるという憧れや目標のために仏教者がつくりだした偶像なのではないかと思ってしまいます。ゴータマ・シッタールダという人物はいらっしゃったかも知れませんが。お釈迦さまが言われたとされる言葉なとば大変好きなのですが、全て弟子から弟子へと言い継がれて文献になったのは亡くなって何百年も後だとお聞きしますし。 お坊さまにこんな事をきくのはいけない事だとは思いますがどう思われますか?
ネットを見ていると、自分は神様と話せる・つながっているという方が結構いらっしゃいます。なかには不動明王から伝言をもらえるという方もいます。彼らの多くはその能力(?)でお金を稼いでいるようです。私はここ数か月調子を崩し、弱っていたので、神様と話してエネルギーをもらいたいと考えていました。でも、いくら話しかけても神様の声は聞こえませんでした。彼らは霊感があるから神様と話せるのでしょうか? 最初は自分にはない能力がある人たちにうらやましい気持ちもありましたが、段々彼らは誰と話しているのだろうか?と思うようになってきました。お坊様方は、神様と話せるという方たちについて、どう思われますか?
いつもお世話になっています。以前、本や聞いた事があるのですがお釈迦様は弟子に死後の世界を説かなかったと聞きましたが本当でしょうか?死後の世界かあるのかという弟子の質問に対して、矢か刺さればまず抜く事だ!だから死後の事など考えず、今ある生を精一杯生きなさいと言ったような気がします。本当にお釈迦様は死後の世界は説かなかったのでしょうか?ある人の本によると仏教は哲学に近く、また無神論に近く、中世ヨーロッパでは無を広める宗教だと恐れられたそうですがその事についてはどう思いますでしょうか?お考えを聞かせてください。
体質の話を載せているので不快な気持ちにさせてしまうかもしれません。 3年前、お友達から雑貨屋で買ったドクロの置物とガネーシャ様の置物を貰いました。それからはずっとピアノの台に飾っているのですが、最近、特にガネーシャ様の置物に対して恐怖が募ってどうしようもなくなってきてしまいました。 とういうのも、私はこまめに掃除するのが苦手で、埃をかぶったままにしがちで、本当は常に綺麗にしないといけない神聖なものをけがしてしまっているのではないか、そして、いつもピアノの目の前にダイニングテーブルがあってそこで食べているのですが、自分は食べ物を食べると胃と腸が張りやすく、おならが出やすい体質で、結構な頻度でしてしまうのです。でもそしたら後ろに神様の置物があるのにしてはいけない、、、ということが分かっているのにおならをしてしまうのです。(おならが出るのが治らないのは病院の先生に毎日30分走ろうと言われているのに、走ってなくて診断の時も走っていないのに嘘をついているので、全て自業自得なんです…。) 最近置物が怖くていつもより何度も食事中に振り返ってみてしまって自己嫌悪と罪悪を感じています。 実はこの置物がガネーシャ様の置物だということも昨日分かったのです。(Googleレンズで検索してみました) 調べていくうちに、ガネーシャ様は願いを叶えてくれる神様だけれど、とても怖い神様でもあること、そして何よりも当たり前のことですが、神様は怒らせてはいけないということを見かけてどうしようもなく嫌悪と後悔がとまらなくなってしまいました。 ガネーシャ様はお怒りなのかな、死んだら絶対地獄に行くのかな、今何を頑張っても地獄に行くのに苦しい中あと何年生きればいいんだ、などと昔、お話を聞いてもらって解決した悩みがまたとどめなく出てきてしまいました。 とても自業自得なのですが、心構えなどありましたらご教授していただければ嬉しいです。
私は現在、仕事で上司からパワハラを受けています。毎日のようにお釈迦様や神に「助けてくれ」と願っているのに何もせず、ただ、不幸を与えてくるお釈迦様や神が憎くなってしまいます。お釈迦様や神は私に不幸を与えて何がしたいのでしょうか?ヘラヘラ笑っているように思えてきます。お釈迦様や神は万人を救う存在ではないのでしょうか?ただ、崇められていい気になっているだけな気がしてならないので答えて下さい
犀の角のようにただ独り歩め。 という言葉が私はなんとなく好きですが、これって自分の我を通したり、孤独に生きろという意味ではないですよね? 最近、趣味のテニスでも仕事でも、周りと協力しないとうまくいかないとようやく感じるようになりました。我を通してるだけでは自分もうまくいかないし周りにも迷惑かけるのを体験してきました。犀の角のようにただ独り歩め。というのは一見周りを見ないで自分のやるべきことをやれというのを感じます。間違ってない気はするのですが、冷たい人、思いやりのない人、とっつきにくい人そういうイメージになりそうです。というか私が今、こうなってる気がします。 なぜこのような言葉をブッタはおっしゃったのでしょうか。
お釈迦様は、大切な存在が辛い思いをしたり、見送らねばならないとき、どんなふうにとらえたのでしょうか。 大切だと思ってずっと元気でしあわせでいてほしいと願うのは、執着でしょうか? 命あるものだからこそいつか、と頭ではわかります。 また、生きていくことは喜びも多いけれど苦しみや辛いことがおおいから、楽になれるのだとも思います。 見送らせる側は、相手を悲しませるから罪になるでしょうか? また、見送る側が辛く悲しく感じてしまい、とても苦しいと感じてしまうのはどうしたら楽になるでしょうか。 今まで居てくれたことに感謝しているし、苦しいなら早く楽になれる方がいいだろうとも思います。 でも辛そうにしていたり、弱る様子を見るとやっぱり悲しいし心配です。 わたしが辛いからどう考えればいいのか、もあります。 でも、相手のためにどういう気持ちで向き合えばいいのかがわかりません。 お釈迦様は、大事な存在を見送る時、残す時、辛い気持ちをどのようにしたのでしょうか。
こんにちは。「葬式仏教」批判についての質問です。 時々ネット等で「お釈迦様は葬式をしたりお墓を作ることを否定した。だから日本の仏教は本来の仏教からかけ離れている。」といったコメントを見かけますが、お釈迦様は本当に葬式やお墓を作ることを否定したのでしょうか? この話の根拠とされる涅槃経(現代和訳)を読んだのですが、お釈迦様は自身の葬式について非常に細かく指示をだしており、さらに「遺骨は塔を作ってそこに収めよ」などお墓を連想させる記述もあり、少なくとも葬式やお墓を否定しているようには思えませんでした。 以前からこういった「日本仏教は本来の仏教じゃない!」といった批判に疑問を抱いていたので、この場をお借りして質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか? 私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。 例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。
お釈迦様はたしか何人も妻がいたそうですが、複数の女性を愛することは仏教的にどう考えられていますか?仏教の教えでも悪なのですか? 日本では複数の女性を愛することは大悪とみなされていますが
はじめまして。 私には少し難しいので、こちらでご質問させていただきたいと思いました。 私事なのですが、仏教アートに触れる機会がございまして、関係者の方に、「先のイベントまでに好きなお釈迦様の手の形を一つ決めておいて下さい」と言われました。 あまり仏教には詳しくないものですから、調べてみても様々なお釈迦様の手の形があることにまず驚くばかりで、決めかねております。 もしよろしければ、アドバイスをいただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。
どの宗派を信じてると言ったほうがいいですか? もしも、何を信じてると聞かれたとき、 説明できないと困ってしまいますので 無宗教なので、別に心配する事ではないのですが、、、 日本人なら、仏教もしっておかなくてはいけないなと思いました。 たくさん宗派があるので、全てを見るのは、無理がありますので おすすめの宗派、ブッダにちかい教えをしてる方がいましたら、ぜひ教えていただきたいです。
ハスノハで質問の答えを見てみるとお釈迦様は王子様ということがわかりました。 そしてこう考えました、お釈迦様は一度くらい肉を食してのではないのかと。 もしかして五戒を守れた人っていないんじゃないかと思いました。 お釈迦様に失礼だと思いますがどうでしょうか? 本当に五戒を守れた人っているんでしょうか?
人にイライラせず、嫌味を言われてもビクビクせず、人に優しく、常に心穏やかにいられるにはお釈迦様のように修行しなければなれないでしょうか? 社会人になってから色々な経験や仕事をしてきて、少しずつ成長してきたなと思えますがまだまだだと感じます。 何かアドバイスを頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
本当なら今頃は無事にお釈迦さまの弟子になっているはずでした。 なんで息をしてるのか疑問です。 お釈迦さまは、まだ、もっと苦しめとお思いなら何が救いのみちなのか分かりません。 もう、また死ぬ気力さえ残っていません。 お釈迦さまは残酷です。
私は「聖☆おにいさん」というブッダが出てくる漫画が大好きなのですが、愛読されているお坊さんいらっしゃったらこの質問に目を通して頂けたら嬉しいです。 作中で梵天と帝釈天が出てきますがブッダに対して「シッダールタ」と悟る前の名前で呼び、ブッダは敬語を使っています。シッダールタ時代に苦行している時にも「おー、頑張れよー!」とか言っていますよね。ブッダをプロデュースしてるみたいな場面も沢山出てきます。 私は手塚治虫の「ブッダ」も読んだのですが(フィクションもだいぶ盛り込まれているようですが)、その中で梵天はシッダールタの前にここぞという時に現れるので(迷っている時や悟った時など)、シッダールタの背中を押す師匠のような存在、と思っているのですが、 梵天や帝釈天はそもそも人間ではない存在なのですか? シッダールタが誕生する前から存在してるという事ですか? この漫画は私の仏教への興味を広げてくれた大好きな作品です。 初歩的な事と思いますし、ネットで調べればすぐ出てくるのでしょうが、ハスノハという場所があるのでお坊さんに質問してみようと思いました。 (帝釈天のスーツはアルマーニ、梵天のスーツはコナカというのはツボです)
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。 回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。 重要な問題なので、再度質問を立てます。 我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。 「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 との金剛般若経の引用をしています。 輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。 そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。 金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。 釈尊の語りですから、これは真実なのです。 これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか? 因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。 詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。