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お釈迦様や神は助けてくれない

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私は現在、仕事で上司からパワハラを受けています。毎日のようにお釈迦様や神に「助けてくれ」と願っているのに何もせず、ただ、不幸を与えてくるお釈迦様や神が憎くなってしまいます。お釈迦様や神は私に不幸を与えて何がしたいのでしょうか?ヘラヘラ笑っているように思えてきます。お釈迦様や神は万人を救う存在ではないのでしょうか?ただ、崇められていい気になっているだけな気がしてならないので答えて下さい

2024年1月29日 19:09

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

内なる神仏、内なる本尊に祈り、神仏をあらわにする。

そんな都合のいいドラえもんのような神様、仏さまを願ってもそれは人間が人間の都合や我欲で思い描いた自分に都合のいい便利な神様でしかありません。
そんな便利な神様仏さまがいるのであれば、世界各国のエゴにまみれた独裁者も、日本を安売りしている自分のことしか考えていない役人もとっくに罰せられているはずでしょう。
神仏とは人間のわたくし・エゴ・自分中心な心のない様子。
外にばかり求めるものではありません。
あなたも神仏の作用を内側から引き出す必要があります。
あなたの嫌う人たちも神仏の心を引き出す必要があります。
これをご覧の方々も内なる自己の神仏の作用を見出し、引き出し、あらわして誰も傷つけることなく、エゴにまみれたこの世界をお清めしなければなりません。
そもそもお国の役人も政治家も教師も医師も僧侶も警察もどんな職業も本来は「公の利益・公のしあわせ」のために努められるべき「公務」です。
公務が私的な運用・運営をされるようになったから、世界は汚れ始めました。
だからこそ、あなたもわたしも誰もがわが内なる神仏の作用を引き出し、自己を清め世を清める気持ちでお勤めしませんと、どんどん世の中はエゴイスト、エゴイズム、いい子ちゃんぶった沈黙者たちによって放置され、何も変わらないまま絵空事の神仏を待ちわびるばかりとなりましょう。
鎌倉時代や明治維新の時代を思い出してみましょう。
偉人たちの誰が人任せ、他人任せ、絵空事の神仏任せにした人がいるでしょうか?
あなたもそういう境涯から脱却して、自分がこの職場、社会の善玉菌的作用の中枢となって、おかしなことを正し、悪を良く有らしめ、暗きを光りに向けて転ずる精神をお持ちになられてはいかがでしょう。
そういう気持ちを菩提心という。
神仏の功徳とは菩提心のある所に発動されるものです。
内なる神仏の発動。
他に求めないあなただけの神仏のアクションというものがある。
そういう力を偉人たちは内側に願われたのではないでしょうか?
だから、彼らが神仏に代わって世直しをされた。
あなたもそうなるべきではないでしょうか?
偉人にならなくてもいいのです。
今日も、明日も、今も、そこで、ここで、どこでも、なんであろうが、最高、最上のアクションを「こころがける」ということが生きた祈り、祈りをささげることによって生まれるあなた限定の神仏の救いの手であるということです。

2024年1月29日 21:55
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様、
ご回答、有り難うございます。

我が内にある神仏、
自分で切り開く事にします。

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