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宗派が変わるとご本尊も変えるのですか?

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24年前に娘を幼稚園入園直前に亡くしました。入園するはずの幼稚園はお寺でしたので(浄土真宗)そちらで葬儀やら法事やらをお願いしたり遺骨は本堂の方で納骨して頂いていました。その間、諸事情がありまして私は実家の近くに転居しました。
実家には菩提寺がありましたのでそちらのお墓に初めて遺骨を埋葬しました。ご住職様は宗派が違っても特に問題ないとおっしゃって下さいましたが位牌の戒名だけは少し変えて頂き祀ってあります。現在でも浄土真宗の作法をベースに曹洞宗も少しですが取り入れながら(お盆の迎えや送りなど)供養しています。今更ながら大変、お恥ずかしいのですが曹洞宗は仏像を祀るようですが私の所の仏壇には浄土真宗に乗っとった掛け軸のみしかありません。仏像はお祀りした方がよろしいのでしょうか?

2022年7月31日 17:11

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本尊は自己の本心 自己の本来性

禅の修行をやりぬいた明眼の老師方は「本尊とはこの自己の真相」と説かれます。
浄土真宗・曹洞宗のご本尊が導く先が異なるわけではありませんのでご安心ください。※学者さんの説・解釈が異なるという面はあります。
では「本尊がこの自己の真相」とはどういうことか?
修行をやりぬいて自己の真相を明らかにされ悟りの内容を明らめられた僧侶は、この自分自身の本来の様子というものを明らかにされた方なのです。
あらゆるお経・教えの蔵は人間の心です。全ての仏教語も禅語もみな自己の身心から発せられた言葉であり仏像もおなじです。
仏像としての阿弥陀様もお釈迦さまも観音様もみんな私人間の内なる素晴らしい救いの力である仏の作用、仏の働きを象徴化したものでもあります。
本尊や故人様を拝むということの本質は外の本尊・位牌を拝むことを通じて我々の内に仏の働きがあることに気づき自己の内なる本尊を御開帳することこそが最も大切なのです。あなたが仏の心に目覚めるということが本尊を拝むということです。
人には日常はなかなか自分に向き合う機会がないために気づけないのですが、誰にでも「この上なく安らかで聡明なこころ」があります。
その心はある時は智慧となって迷いや苦しみから救う働きとなる。
その心はある時は慈悲となって哀しみ苦しみに同調して優しい癒しや救いの作用となる。
それを仏心と呼び、法とも呼びます。
それを細かく分けて象徴化したものが本尊様や諸仏・諸菩薩の尊像というものであって、外の仏を求める姿勢になりますと仏教本来の釈尊の教えとは異なり、偶像崇拝や仏さまを神様のように混同してどこか遠い世界に存在するかような仏として敬う態度になってしまいます。
わが心の外や他のところに仏や理想郷を求めないのが曹洞宗の道元禅師様の理知的な教えです。心の外に地獄や極楽をもとめない。
「心外に他土の往生を願わず」『学道用心集』
道元禅師の説かれる釈迦牟尼仏とは、内なるあなたの仏。仏像としての本尊様を仰いでも構いませんが、道元禅師の説かれる釈迦牟尼仏や本尊とは全人類、誰にでも備わっている内なるほとけのはたらきです。
「峯の色 谷のひびきもみなながら
  わが釈迦牟尼の 声と姿と」
よって、ゆとりがあったら求められれば良いでしょう。
今は内なる愛する方への心情をみたまとしてこれからも見守り、導いてくれるように心を込めてお手合わせください。

2022年7月31日 18:45
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

素早いご回答ありがとうございます。
胸に支えていたものをとって頂いたようで改めて仏教の良さを感じました。

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