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職場恋愛の悩み。

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お世話になります。先日職場の休憩所である新人さんと話をしました。お互い部署が違うので初対面です。

でも、お互い人見知りで、勉強があまり出来ないとか人間関係の苦労してきたこととか色々な悩みが似ていて彼女からも結構喋ってくれました。

自分は、仕事以外の話で距離が縮まるのが怖いんです(仲良くなることが怖い)。これまで仕事以外の話で距離縮まったり仲良くなることが多かったんですが、思わせぶりだったり、無視されたりとか色々あったので仕事以外の話で盛り上がったり仲良くなるのが怖いんです。

怖い気持ちが強くなると好きな趣味やゲームなど楽しくなくなり憂鬱になるので
どうしたらいいんだろうか、、と悩んでます。先日は楽しく話せたんですが今は不安や怖さでいっぱいです。
宜しくお願いします。

2022年9月30日 13:27

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ー菩提心ー 苦しい心も新たな適切な縁を加えれば改良される

コロナ前のことでしたが、友人と久しぶりにあって一杯やろう🍺という時に東京駅で待ち合わせました。
彼は待ち合わせの場所に来ると「丹下さん、今日は電車の中で6人の女性と恋に落ちました。」と。
もちろん、そんなことはないのですが、人間、特にオスというものは異性を見てはあの子がイイなァこの子がいいなァと勘違いして本能的に「いいなァ」と思ってしまう「作用があるよね」ということです。
恋というものは基本が勘違いと錯覚と妄想ですので(笑)、入れ込み過ぎないことです。小学生、中学生~現在に至るまで「あの子はいいなァ(´-`*)♡」という気持ちが生ずる相手が何人かは居られたのではないでしょうか。
この人とは何があってでも添い遂げたいという気持ちがないのであれば、生命のサガと心得てさほど深く思い悩まない方が身のためです。
失うことをおそれるということは、自分に対しても相手に対しても同じですが、その失いの心の起こるところはみな自分の心です。
公、公的に生きることを重んじることです。
私、私的に生きることは境界線が曖昧になり公に歩むべきところでもルール違反、マナー違反をおかしかねません。
全てのものが元々誰のものでもないまま存在しています。
それをワタクシ化することが人間の迷いの始まりです。
全ての人が元々誰の所有物でもなく、誰に帰属する人でもありません。
心の作用、心の動き、心理作用というものも「そのような思いが生じただけ」という状態があります。
願望や欲望や妄想というものも、発生時点では毒でも薬でもありません。
それが発生した直後、自分の中でどのような手を加えるかによって作用や働きが変わります。
冒頭に申し上げた、私の友人はタイプの女性?と6人とすれ違ったそうですが、彼はお坊さんでして。
自分自身の心理をよく見つめているのであなたと同じように傷つきたくはないので、要らぬ心の走らせ方はしないということです。
人生は車も自転車も心も安全運転が大事です。
職務に全うされることが第一です。
ですが、それでもこの女性は…と思う気持ちがあるのであれば、大きな恋に発展する可能性もあります。
決めるのはみんな自分です。
👉自分の心を暗いままにするのも、明るい心、豊かな心にするのも、みんな「自分の心に対する縁の働きかけ方」なのです。だからこそ良縁を加える。
ここは100回読み直して下さい。

2022年9月30日 16:31
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました^^
勿論女生徒は休憩時間にお話ししていますので
お仕事はまじめに頑張っています。
確かに素敵な人はいらっしゃいますね。
僕は今回であった人とはできるのであれば、
添い遂げたいですが、本当に信頼できるか不安なので
もう少し仲良くなってみたいなと思います。

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