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コロナ後の曹洞宗の禅の教えを

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禅宗の事を海外の方に、コロナ禍を踏まえながらメディアで伝えたいと思っています。

話の流れとして、コロナウイルス蔓延の主な原因とされている、人間により生物多様性が失われ、ウイルス媒介者のバランスが崩れた事を挙げ、坐禅と山寺の訪問を通して、自然をコントロールするのでなく、自らも自然の一部であることや、他者支配などの執着を捨てる事を受け入れることに繋げて結びたいと考えています。

そこで質問です。

海外の方は、特にIT系の方はスティーブ・ジョブズが実践したように、心を落ち着け、個の霊性、才能や内なる力を目覚めさせる為のメソッドとして禅を捉えていて、憧れています。

そこまでは説明が簡単なのですが、
そこから
執着を外していく中で、自分を自然や宇宙の一部だと考える境地に至るまで、利己でなく利他にまで心をシフトさせることにかなりのハードルがあります。

スティーブは究極の利己のイメージがあるのですが、それが結果的に人の心を揺さぶるものだったという事から、自然との共生のメッセージに繋げ難いのです。

次の時代を生きるヒントとして、
禅の教えを、単なるマインドフルネスのメソッドとしてではなく、人と自然のバランスを考えるための大きな内観法として伝えるには、
どのような言葉で伝えるのが良いでしょうか。

ご教示頂けますと幸いです。

2022年10月2日 14:58

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全身菩提心のアクション

執着を外して自分を自然や宇宙の一部だと考え、利他の精神に目覚めるにはどうあればよいか?
執着というものが自然界に元々「ない」「維持できない」「執着されないまま=流れていっている」すべての生物も現象も存在しているという所に焦点を当ててみてはいかがでしょう。

人は「何かをしよう」とするでしょ?
「何かの目的をやろう」とする。
退歩ではなく進歩を「しよう」とする。
「益を得よう」とする。
その為にそれをやろうとする。
あなたにもその心理があるはずです。
そのベースに気づけない人が多いのです。
その利・益・得・徳、何かの為にという微細な悪い意味での無心の発動が根底にあるので自我がベースになっているのでしょう。
言葉は悪いですが根底にエロ意識があるということ。
だから菩提心が機能せず、菩提心が発動されない。真実の人類愛が生じない。エゴベースの自分ファースト・ワタクシファーストの活動が主体になる。何かの為にならやるけど、条件づけを捨てられない。
我が家には発達障がいの子がいますが、小学校の支援級の先生が立派な人たちで、完全に子供たちと同化し親御さんたちの気持ちも汲んで自他ともに生かされより良い方向へと向けてくださっております。公立なのに。
花壇で野菜を作らせます。その野菜を持って帰れば子供もうれしい、親もうれしい、子供も技能を身に着けられる。先生たちもうれしい。いいことづくしです。
そういう何かの為にという意識すらも無い善導の精神ということが人間にはあるのです。それを道元禅師は「ただ仏法の為にやれ」と言っておられるのです。
利他とか人類の救済とかでもなく、その人類共通の天然の救いの作用に任せていけば救われないものが居なくなる働きとなる。
真実の利他とは、他の為にとか、利他というよくある宗教的な義務的なものがないのですよ。全部結果的に禅師類共通で良い事をなさんというハタラキに導かれておのずから良い働きがなされるのです。
たとえば農家を助けるはずだったJAが利権に向かうと種を買うのに、肥料を買え、農薬をセットで買え、規格を合わせろ、と人為的になる。
損な者よりも田舎の無名のばーちゃんが作ってくれた天地自然のお手伝いをさせて頂いた上で授かった野菜の方が300倍うまいものです。
「何かの為にということでなし」にやる善導・善意の作用に意識を向けるのです。私のコレも何でもない文です。

2022年10月2日 15:41
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

有り難し

佳名子さん、凄い勉強してますね。それをそのまま伝えましょう。
但し、一言お願いいたします。「今、私が分かっている範囲ですよ。これからも修行を続けて参りますので禅や仏教は日々アップデートしたことを伝えさせていただきます。」
 私が思うに欧米の方々は結果や論理を早く知ろうということが多くあると思います。教えは無情説法です。分かったことが分からなくなる。分からなかったことを知る。分からないことを分からないと認めることが理解を深める第一歩です。ここで歩みを止めてはなりませぬ。
 今、ハスノハで質問したことはあなたのご縁が結びついた証です。一緒にハスノハ僧一同と考えていきましょう

2022年10月2日 23:59
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有り難し
おきもち

目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

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