hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

無意識で出た彼の言葉に動揺、悲しみ。

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

初めまして、こんにちは。回答頂けたら嬉しいです。
[状況]
・私は過去に性犯罪に遭い性行為が出来ません(フラッシュバックで怖くなるため)
・心療内科にも通い、薬も処方して頂きましたが(フラッシュバックしても恐怖心を和らげる作用)正直薬を飲んでまで性行為をしたいと思いません。
・上記の状況を承知の上で付き合って7ヶ月の彼氏がいます。
・性行為ができるよう自分なりに努力はしてますが本番となると力が入り恐怖心で体が震えます。

質問は以下の通りです。
①「いつになったら出来るの?」と言われ(無意識で言ってしまったそうです…)動揺と悲しさで好きかどうか自分の気持ちが見えなくなり最近はスキンシップも会話もどう対応していいか分からず段々と好きな気持ちが見えなくなってきました。
②彼は将来子供を望んでいます、私は望んでいません、これはもう別々の道に進んだ方が良い。ということでしょうか?
③今を生きるとはどういうことでしょうか?またどうすれば今を生きれますか?と言うのも性行為が難しい私は一生一人かもな…と悲観してしまう時があります。

2022年10月3日 23:03

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「事実ファースト」 脳内の負の反応と今の現実は❝実際に❞違う

トラウマやフラッシュバックに対して私は「事実確認」をすることで乗り越えました。過去、その場所で嫌な事があったとしても、その現場に今新たに行ってみると確かに脳内にその時の負の記憶が生じて、その負の記憶に対して防衛反応や拒絶反応が生じるために(☚ここ大事)
苦しみとなってあらわれるものなのです。
心は自分を守ろうとしてくれます。
ご主人様はあなた自身なのですが、ご主人様が過去において嫌な体験をされた事、また同じ目に遭いたくないために、SOSの反応、SOS信号、防衛のアラート(警報)、危険信号が発せられるのです。それは単純に同じような苦しい思いをしたくないための自然な反応と言ってもいいでしょう。ですが、もし現実が実際にそうではない場合は脳内の防衛反応、SOS信号を優先させずに、今の現実を見るべきです。

人間にとりつき人間を苦しめる妄想をキツネ🦊タヌキ🦝と呼ぶならば、世界中のすべての人たちがそのタヌキキツネに定期的に苦しめられているものです。
タヌキキツネとは現実の姿をしていません。脳内限定。
ここでいうタヌキキツネとはあなたを不安にさせる心理。プロボクサーも相手にビビっていたらリングにすら上がれません。警戒する心理、防衛する心理も制する必要はあるのです。ですが、その防衛心理が過剰に働いてしまうと、自分が自分を傷つけたり、フリーズさせてしまう働きにもなってしまいます。
事実確認とは脳内の反応やタヌキキツネに騙されなくなるためにも必要な心理アクションです。
まず、目の前のものをよくみること。
ああなんじゃないか、こうなんじゃないか?という心の発動を意識しながら、現実を確認するのです。
こんな時に何ですが、今、あなたのスマホの反対側がヒビが入っています。壊れる寸前です。実際に確認してみてください。すると、どうでしょうか。
ひびが入っているかもしれませんし、大丈夫かもしれません。それは私にはわかりませんが、そこで事実確認をするのです。
スマホから通知が。
彼かもしれません、北朝鮮からミサイルが撃たれたかもしれません。
今朝も大変でしたが、事実確認をすれば「大丈夫」でした。
落っこちたらどうしようという混乱も過ぎれば無問題です。
これはたとえですが、日常生活で事実確認をして脳内の🦊🦝よりも現実・事実を最優先にする姿勢「事実ファースト」で心理的負担は軽減されるでしょう。

2022年10月4日 9:09
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます、とても嬉しいです。
何度も読み返してみて自分の中に取り込もうと思います、ありがとうございました!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ