友人の死から時間が経って
誰にでも優しく努力家で大好きだった友人を亡くしました。
先方の状況も落ち着いた先日、友人数名と彼女のご自宅へ線香を上げに伺いました。
ご家族も含め彼女の思い出話をしたりとても有意義な時間でした。
しかしながら、私は未だにどこか彼女の死を受け入れられずにいます。
ご仏壇の前で彼女の遺影に向かって手を合わせたというのに、まだ現実には彼女はどこかにいていつかまたフラっと現れて普通に会えるのではないかと思ってしまいます。
こんなことを書きながらさらにひどいことには、彼女を羨ましいとさえ思ってしまいます。
突然死で苦しむもこともなく、人生のとても良いときにまわりの人にすごく惜しまれながら亡くなった彼女を羨ましいと思うのです。
私にも大切な家族や友人パートナーがいて、普通に仕事もあって恵まれているはずなのに…
神様から貴方が彼女の代わりに死ぬ?と尋ねられたら喜んで受け入れてしまうと思います。
羨ましいなんてひどいことを思ってしまう自分なんて消えたらいいのにと思います。
ですが、私は傲慢で臆病なので自分で自ら死ぬ勇気さえないのです。なんの目的も生きがいもなくだらだらと生きてしまっています。
まとまりがなくて申し訳ございません。
励ましでも喝でも構いません。こんな私にお坊様から何かお言葉を頂けないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
沈みそうな あなたを引き上げるからね。だからいつでもおいで。
手を合わせに参ったのね。ありがとうね。
そして、気持ちがグッと寄ってしまったのね。
今でもこんなに慕われて…私ならきっとこうならないだろう…なぜ彼女だったのだろう…私だったら…
いろんな感情が湧いてきたのではないですか。こうして仲間が集まって、亡くなっても、彼女の話題になって。私にはこれほどまでに…寂しい。
比べても、命を重ねても、仕方がないのに、
なんだか考えちゃうんだよね。
傲慢で臆病で。それでもいいじゃない。
そんな あなたを大切に想う人も、ちゃんといるのだもの。それでいいのよ。
気持ちが揺れたとき、そんな自分をダメだなんて思うことはないのだよ。揺れたら、揺れたまま、浮かんだらいい。ハスノハに流れておいで。ここで気持ちを下ろしたらいいのだから。
自分を責めて、重りをつけてはいけないよ。
沈むのでなく、浮かぶのよ。そしたら、私が掴んであげるから。どうしようもない気持ちのときは、その気持ちに逆らわずに、気持ちが落ち着くまで身を任せようね。しばらくしたら、気持ちに変化が起きるからね。そしたら、また立って歩いていけばいいんだよ。どこかに必ず、生きたい理由が生まれるからね。それまで、私がちゃんと掴んでいてあげるからね。沈みそうな あなたを、引き上げるからね。だから、いつでもおいで。