昔、野良猫を助けられなかった。罪悪感。
7年くらい前ですが、私が仕事に行こうと外に出ると、見知らぬ野良猫が居て、ものすごい勢いで私の足に擦りついてきました。
当時、私の家で猫を1匹飼ってました。
外に放し飼いにしてたので、うちの猫の知り合いか?みたいな軽い気持ちでした。
で、その野良猫が私の足元から離れず、私は逃げました。
その後、その野良猫を追い払い、野良猫が祖母の場所へ行き、その隙に私は何とか車に乗り、仕事へ行きました。
次の日、祖母がその野良猫が死んでいるのを発見しました。
祖母の話によると、その野良猫は首が曲がっていたのかわからないが変な感じだった、助けを求めてうちにきたのかもしれないと言っていました。
確かに、その野良猫が私の足に擦りついてきた時、頭の辺りがなんか固い?ような違和感はありました。
しかし、私はその野良猫が助けを求めていたとして、その野良猫は首が曲がっていたかもしれない、大怪我をして私の家に来て、助けを求めていたのかもしれない。
私はそんな事も気付けず、また猫より仕事を気にして、その野良猫の気持ちもわからず、助けてあげられませんでした。
その野良猫は祖母がうちの庭に埋葬しました。
それから月日が流れ、私は時々思い出しては悲しみと後悔に溢れています。
仕事なんか後回しにして猫Aを病院等に連れて行くべきだった。
そうすれば救えたかもしれない。
私のせいでその野良猫は死んでしまった。
そんな感じで考えてしまいます。
私はやはり最低でしょうか……?
罪悪感と後悔、悲しみに浸っております。
御意見お待ち申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
追善供養
かずさま
同じような経験がありますが、後悔はあっても、また、どこかで他の命を助けることに努めることによって、その功徳を供養としたいところとなります。
追善供養と申します。
動物、虫等、身近で助けられる命は無数にあります。例えば、虫を踏まないように気をつけて歩いたり、たまに肉や魚を食べないようにするなど、意識的に心がけてできるものとなります。
このようにその助けられなかった子へと向けて、善き赴き、善き生まれ変わり、そして、何よりも仏さまの教えによる善き導きがありますようにとして追善供養して頂けましたらと存じます。
合掌
質問者からのお礼
ご返答、誠にありがとうございました。
追善供養と申すのですね。
初めて聞きましたが、先生の仰る通りにしてみようと思います。
まだ供養してあげられると知り、元気出てきました。
ありがとうございました。