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神仏の経済的な消費について

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有り難し有り難し 23

お尋ねして良いものか悩みましたが、本職の方のご意見をお聞かせ願いたいと思い投稿しました。

お寺や神社への関心が経済的に消費されていることがどうしても受け入れられません。
とても嫌な言い方になってしまいますが、
パワースポットだ何だと聖域を土足で踏み荒らし、信仰するつもりもないのにその恩恵だけは受けたい利己的な人々。
スタンプラリーのように自己の収集欲を満たすためだけに御朱印を集めてまわる人々。
過度に美化された歴史上の人物や神々のキャラクター化。
大河ドラマなどに代表されるような、経済効果ばかりに目が眩む自治体や企業。

大多数の人はそんな事気にしないでしょう。これは私の認識の問題であって、自分が一方的なものの捉え方をしている事は理解しています。
でも、歴史って、信仰って、人の生きた証って、そんなふうに扱って良いものなのでしょうか。まるで見世物の様に経済的に消費されている様に感じてしまいます。
需要があるから供給されているという事はわかります。お寺や神社に多くの人に来てもらえるように所有する文化財や偉人との関わりを宣伝、アピールしていらっしゃる事も重々承知しております。拝観料などは支払って当然とも思っています。
そう言った事ではなく、自己の欲望のために喧伝・消費するような行動に、嫌悪感を覚えるのです。

法隆寺に参拝した際、夢殿にてご老人が何やら怒鳴っていました。
「救世観音が見られないとはどういう事だ!その為にカネを払ってるんだぞ!カネ返せ!」と。
何処かの檀家さんなのでしょうか、そのご老人は輪袈裟のような物を身につけていました。ある程度日本のお寺に詳しければ、救世観音像が秘仏である事は知っている筈です。知らずとも、金を返せと怒鳴り散らすなど言語道断です。
この時感じた猛烈な嫌悪感が、ずっと心に刺さっています。

このご老人を責めたいわけではありません。ただ、大げさとは思いますが、この出来事が信仰のある人にとって神聖なものや、歴史的価値のある物に対する、今の日本人の扱いの縮図に思えてなりません。

繰り返しになりますが、これは私の認識の問題です。苦しみの発生源は私自身の心です。いわゆる"無宗教"の一個人の考え程度に受け取って頂いて構いません。
誰も悪くありません。誰も間違っていません。ただどうしてもやるせなく、哀しいのです。自身の狭量に恥じ入るばかりです。

2023年1月21日 0:54

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真理や本質から離れてしまうことは

拝読させて頂きました。
あなたのお気持ちとてもわかる様に感じます。あなたがそうお感じなさるのも無理からぬことです。あなたがおっしゃる様に言語道断ですよね。お気持ちを心よりお察しします。

人間はいつの間にか自分の都合のいい様に解釈し利害のある方に向かっていってしまいます。それは私達の欲望や煩悩のせいですよね。私達の愚かな心がいつの間には真理や本質を捻じ曲げていってしまいます。

以前ある神社で御朱印を書いている巫女さんがちょっと間違ってしまったことをご朱印帳の持ち主に伝えたところその持ち主は烈火のごとく怒って若い巫女さんに暴言を吐いていました。「俺の大切なご朱印帳をけがしてどうしてくれるんだ!謝れ!弁償しろ!」と怒鳴って巫女さんを追い詰めていました。巫女さんは驚いて泣いてしまったほどです。

本当の愚かなことです。御朱印とは神仏とのご縁を結んだ証として下されるものです。本来ならば自ら写経をしたためて神仏に奉納し功徳を積んだ証として書かれるものです。ですから御朱印は二の次三の次です。神仏への敬いや感謝の気持ちを捧げて尊きご縁を結ばせて頂いたことを心から喜び感謝することが本意です。極論ですがご朱印帳はおまけなのです。

非情にも若い巫女さんを怒鳴って責めているその人をその仏様や神様がどうご覧になるでしょうか?どうお感じなさるでしょうか?そしてそこに功徳やご利益はあるのでしょうか?わざわざ時間を作って高い交通費を支払ってその神社仏閣を尋ねてそしてその様な些細なことで怒って感情をぶつけて悪言を発して嫌な思いをして何の功徳があるでしょうか。逆に悪意や悪言や悪行を積み重ねに行った様なもので、何の功徳もご利益にもなりません。

その様な愚かな私達を再度見つめ直して悪しき考えや言葉や行いをせぬ様に、人やものを傷つけたりせぬ様に、そして善き考えや言葉や行いを心がけながら一期一会を大切になさっていきたいですよね。

どうかあなたもお心がけなさってみてはいかがでしょうか。あなたが様々なご縁に恵まれながら親しい方々とお互いを思いやり心からおおらかに豊かに幸せに生き抜いていかれます様に心から仏様や神様やあなたのご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌

2023年1月21日 13:54
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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宗教文化の明日

経済的な消費云々、おっしゃる通りです。例に漏れず私も運営をしながら、そこの矛盾と常に戦って物事を決めている感があります。
価値観の相違もあるでしょうが、経済的消費の対象になる期間というのは今も昔も、ある意味一過性の連続であろうと思います。
翻って「継続的、恒久的な信仰をいただく」ために、できることは何だろうか…と、神仏に関わる方々は皆そこに日々一生懸命に頭を捻って体を使って、取り組んでいるものでしょう。
ご指摘というか観点が素晴らしいと思います。本来はどうあるべきなのかという原点を忘れない考え方とその姿勢は、欲しくても得られない感性の賜物と思います。
でも神仏を崇敬することが、ご考察の通りに需要と供給の関係でもあり、こうでもしなければ徐々に消えゆく民族文化の一端であることもまた、事実なのでしょう。我々は常に襟を正す気持ちであります。

ご相談ありがとうございます。神仏の傍らで永く仕える身として、色々と勉強をさせていただきます。合掌。

2023年1月21日 14:07
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有り難し
おきもち

現代は実に「背負い込んでる」人が多いと思う。 別に自分が背負い込まなくて...
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師弟関係・寺檀関係

混沌のぬか床さま

本来の仏教における師弟関係、寺檀関係からすれば、その憤り、違和感は当然のことであるかと存じます。

有り難い教えを頂いたその御礼として、有り難い仏法を護って頂くためにとして、お布施するのが本筋となります。

釈尊とスダッタ長者の関係がその本来のあり方となるわけです。

もちろん、僧侶は最低限の物しか所有はできませんから、布施等は個人所得になるのではなく、僧団の維持や貧者への施しとして使われるものとなります。

しかし、現代日本仏教において、布施は、寺院・仏像の維持管理、僧侶・寺務員の給与所得へが主となってしまっていると共に、本来の仏法の説法や伝道、仏法の真理考究・研鑽、仏法護持・興隆のためとして布施する側となる檀信徒の信仰意識も希薄化してしまっていることや、時代の背景(戦火による荒廃や廃仏毀釈等)もあり、思うように布施が集まらなくなってしまっていく中で、仏法の商用利用、あるいは、現世利益に傾いた「商品」として仏法を売ることで、寺院・仏像の維持管理、僧侶・寺務員の給与所得を賄おうとしていく傾向が顕著になってしまっていった結果でもあるのではないだろうかと存じます。

もちろん、日本仏教の寺院でも一括りに全てがそうでもありません。本来の関係性で取り組んでおられるところはもちろんたくさんあります。

また、今でも釈尊の時代からの師弟関係、寺檀関係が厳格に守られている他国の仏教もあります。チベット仏教はその一つです。

特に日本とチベット仏教との関係で、清風学園の平岡英信氏とチベット亡命政府のギュメ密教僧院との関係などはまさに典型的な寺檀関係です。

師弟関係でも、清風学園の平岡宏一氏とチベット仏教の高僧であった故ロプサン・ガワン師との関係も典型的な師弟関係と言えるものでしょう。

まあ、まだそんな古典的善き関係性もあるのだと少しでも知って頂けましたら。

合掌

2023年1月21日 14:36
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

皆様、ご多忙の中ご意見を頂きありがとうございます。

三休様、チベット仏教の師弟関係のお話など、私などでは知り得なかった貴重なお話をありがとうございます。
「商品」として仏法を売らざるを得ない事もある。心苦しいことです。

TAIKEN様
やはりお寺さんもこうしたジレンマに悩んでいらっしゃるのですね。あちらをたてればこちらが立たず、舵取りが難しいこととお察しします。

Kousyo Kuuyo Azuma 様
> 善き考えや言葉や行いを心がけながら一期一会を大切になさっていきたいですよね。
大切な事だと思います。夢殿のご老人も、御朱印の方も決して悪人ではない筈です。
私も含めて人は些細なきっかけで愚者となってしまう。そうならないためにも善き心構えでありたいものです。

皆様どうもありがとうございました。心の中のモヤモヤを文章にするだけでも随分気持ちが楽になった気がします。

寒い日が続いております。ご自愛なさいますよう。

「神社・神様」問答一覧

神を信じられなくなって辛い。

カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。 数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 38
回答数回答 3

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

神を信じられなくなってしまいました辛い。

カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

稲荷信仰の宗教学民俗学的知見を求めてます

 最近、狐に呼ばれているような気がします。稲荷神社に参る必要性を感じているのですが、どこの稲荷神社に行けばよいのかわかりません。  20歳の時に初めて参り強く心惹かれ、なんとなく購入してきた狐のぬいぐるみを会社に居る間ずっとお世話させていただいていた京都の伏見稲荷大社が筆頭ですが、子供の頃に毎日通っていた千駄木の満足稲荷、今は両親の離婚に伴い縁のない実父の家が代々氏子を務める根津の根津神社内の乙女稲荷、生まれた病院の隣の湯島の花姫稲荷にも縁があります。現実問題として現住所が東京であるため、伏見稲荷大社以外でも失礼にあたらないのであれば、そちらに参りたくもあります。  また、昨年は自殺を考えるまで思い詰めたいた時期もあったのですが、その際に縁もゆかりもなかった女性に救われました。その方とは今は連絡が取れないのですが、不思議な人で、どうも今を思うと言動の節々や所作から、狐だったような気がしてなりません。ただ、この方は仏教系の荼枳尼天に近い気もしており、そうなると仏教系の豊川稲荷に行くべきかもしれません。  祀るにあたってリスクがあると言われる稲荷神ではありますが、それだけに失礼のないよう調査しており、また、この機会に一生祀る覚悟もあります。そうでなくとも、召喚には応ずるべきですし、もしも本当に自殺の間際から救ってくださったのがお狐様であるなら、お礼は言うべきだと強く感じています。故に、気軽に選択できずにいろいろ調べている現状です。  神仏には何かを求めるものではなく、あくまで個人の努力を応援してくださる存在として、私個人の思想と行動を中心に考えるべきということも重々承知しており、現実的な偶然を神秘的な問題と混同する危うさも理解しています。しかし、今回は、なんとなく重要な問題のような気がするので、心の問題というよりも、宗教学・民俗学的問題としての情報を求めています。  稲荷神の分霊に関して、総本宮である伏見・豊川の祭神と、それ以外の全国の稲荷神社の祭神は、神道系仏教系の同カテゴリの稲荷であればそれぞれが等しくどこからでもアクセスできるのか、派遣され憑いてくださるという眷属に関してはどのようなシステムで運営されているのか、全国の稲荷神社に参拝して信心を納めても良いものなのか、宗教学・民俗学に詳しい方がおられましたら、回答もしくは書籍の紹介いただけると幸いです。

有り難し有り難し 8
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ