大切な物を失って生きる気力がありません
久しぶりにご相談させて頂きます。つい最近、子供の頃家族で米国に滞在していた時に父から買ってもらったペンダントがなくなっているのに気がつきました。
私にとって今は亡き父からの愛情の証であり、まだ両親が元気で家族が幸せだった頃の象徴で、35年間ずっと大切にしまってきたものでした。
思い当たるのは、ずっとしまっているだけでは勿体ないからと使うことにして、半年前に友人とのランチに着けていきました。夏だったので、おそらく帰って外した時に汗を流すため水洗いし、ティッシュの上で乾かしていたと思います。それを(ティッシュで半分隠れる形になっていたのか)誤って捨ててしまったようです。
可能性のあるところは家中全て探し、警察やお店、マンションの管理室にも問い合わせましたが、落とし物の届出はなかったので、本当に捨ててしまったとしか考えられません。
父からの大切な贈り物、長年心の支えにしていたものを愚かにも自らの手で捨ててしまい、茫然自失の状態です。家族がいなければ、どこかに身を投げてしまいたいくらい辛いです。
家事や子育てがあるのであまり落ち込んだ顔も見せられず、なんとか日々を送っていますが、ふと思い出しては苦しくてたまらなくなります。
自分の不注意への腹立たしさ、情けなさ、後悔、父への申し訳なさ…。全て自業自得なのですが、もう二度とあのペンダントを取り戻せないことがつらくて悲しくてたまりません。
こんな親不孝で愚かな私でも、子供達のことを思うと今死ぬわけにはいかないのですが、この先どのように気持ちを立て直して生きていけば良いのでしょうか。また心の支えにしていたものを失った喪失感を、どのように埋めていけばよいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
愛情の証は、あなたがこうして存在すること。
そんな想い出の、特別な物だったのですね。お守りのように、お父さんを感じておられたのですね。だから、お父さんの想いを裏切ったように思ってしまうのですね。申し訳なくて、自分が愚かで。あの時に戻って、やり直したいくらいですよね。
人は、モノに執着するものです。そこに、その人を見るから、重ねるからでしょうね。
ただ、永遠に保つことは難しいのが、この世です。あのペンダントに、お父さんを想うのなら、またコロナが終息したら、いつか想い出の場所にまた行ってみませんか。同じ景色が甦るかもしれません。似たようなモノに巡り会えるかもしれません。そんな目的を持ちながら、お父さんを想い、生きるのもまた一つの乗り越え方かもしれません。
同じものを手にすることが大事なのではなく、いつまでもお父さんを想えるあなたでいることが、大切なのではないでしょうか。
だって、愛情の証は、あなたがこうして存在することなのだもの。
質問者からのお礼
中田三恵様
前回に続き、私の気持ちに温かく寄り添って頂きありがとうございます。
「愛情の証はあなたがこうして存在すること」というお言葉に、思わず涙が出ました。そうですね、今の私があるのは父母が愛情深く育ててくれたおかげです。ペンダントがなくなっても、父が与えてくれた愛情は私の中にちゃんと残っているのですね。父の想いに応えるためにも、前を向いて生きていかなくてはいけないですよね。
本当に、いつか子供達を連れて、昔父母と訪れた米国にまた行けたら…と思いました。父が連れて行ってくれた場所や家族の思い出を、子供達に沢山伝えたいです。視野が広がるようなアドバイスをくださり、心から感謝申し上げます。
ちなみに前回のご相談のしばらく後に、特養にいた母が亡くなりました。
退去のために兄妹で形見分けしたのですが、その荷物の中に、なんとあの時探していたブーツがありました!!
特養に移る時に何度も探したはずなのに、こんなこともあるんですね…。今は毎日私の足元を温めてくれています。
今回のペンダントについては、残念ながら同じ奇跡は期待できないですが、頂いたお言葉を心に刻んで、父母への感謝を胸に歩んでいこうと思います。本当にありがとうございました。