自分の意見を言えると我が強いの違いは?
昔父から虐待を受けていて
自分の意見を言う事を許されませんでした
現在PTSDで精神科に通っています
最近自分の気持ちを少しずつ受け入れられるようになってきました
去年ある病院で高額な治療を受けたのですが
その効果が一切なく
それは検査結果でも明らかでしたが
医師は何の説明もなく
顔すら見せず逃げました
弁護士に相談したところ
説明義務もあるしまずは話し合ってみてと
わたしは思い切って電話しましたが
『先生は電話に出れない』と言われたので
診察へ
院長なので病院の方針というより
電話は自己判断なので
やはり逃げてると感じわたしは腹が立ってきました
するとあれだけ怖かった相手の暴力や怒りというものへの恐怖が自分の中で1番でなくなりました
本当に怖いのは自分自身を見失ってしまう事だと
医師に
「何を持って効果がないと言っているの?」と聞かれ
検査結果の事も伝えましたが
「別に効果を保証するなんて言ってない」
「はい無理」
と切り上げられ明らかに怒っている態度でした
わたしは泣きそうな気持ちで必死に伝えました
精神科で話すと
『今回は相手が不誠実な対応だからそれでいいと思う
よく言えたね
でもあなただから言うけどクレーマーにはならないで』と
『親に感情を受け入れられなかった子は怒りがすごいので意見は言えるようになったけどまわりに誰もいなくなり孤独になってしまう人が多い』
『我が強い人間は嫌われる
正論でも弁護士や上の人間に言うのは相手からしたら嫌な奴、面倒な奴になってしまう』
と言われたのですがモヤッとしてます
わたしはいじめも受けていたので
自分の意見を言えたのも十数年ぶりでした
なので一緒に喜んでほしかった
確かに全てにクレームつける人もいて
そうはなりたくないと思うのですが
今まで周りに
『全然意見や気持ちを言ってくれないから逆に付き合いづらいわからない』と離れられた事も多々あります
なのでどこまでが言ってよくて
どこからがダメなのか本当にわからないんです
たとえば相手に聞く気がなかったらその上に言う必要があると思うし
自分の意見や気持ちが言える事と我が強いのは何が違うのでしょうか?
嫌われるのを怖がってたら意見や気持ちも言えなくなるし
今までそれで感情を閉じ込めて来たので
嫌われてもいいから伝えていきたいという気持ちが強いです
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人間関係は複雑
人間関係は相手の性格や立場が一人ひとり違うので、単純に線引きは難しいでしょうね。
相手の反応を見ながら、相手との今後の関係をどうしたいか計算して、その都度判断する必要があります。
つまり、適当にアドリブで良いのです。
押してダメなら引いてみるとかもありますし。
みんな自分が一番可愛いので、誰でも我は強いのです。
交渉が上手が下手か、相手のために譲歩する余裕があるかないか、その違いかもしれません。
ハチに刺されるのは嫌だけど、蚊に刺されるくらいはガマンできます。
治療費も、やってみて無駄だったと悲観するのか、試してみることができたのでやらないよりは良かったと明るく受け入れるか。
心に余裕があるかどうかで変わりますね。
質問者からのお礼
お返事遅くなり申し訳ありません。
次に話し合いの場を持ち、言葉の真意がわかりました
ありがとうございます。