弟子が師匠を超えるのは良いのか
友人が芸事をしています。友人は師匠と公演を行うことがあります。
私も友人を応援しに、何年も前から公演に行っています。見ての通り、技術も全て師匠が凄くて、友人はまだまだ未熟で劣っていました。
しかし、最近は友人が開花していき、師匠と同等かそれを超えてきていると思いました。
友人は良い評価をされるようになっていました。
この前、もう共に芸事はしたくないと、友人は師匠から言われて落ち込んでいました。
そう言われモヤモヤするし落ち着かないだろうなと思います。
出藍の誉れというものだと思うのですが、
弟子が師匠を超えるのは、あまりよくないのでしょうか。
友人の人間性はこれまで通りだし、悪い事もしていません。
芸事を辞めなきゃいけないか、師匠とは別れた方がいいのか、どうやって振る舞って良いかとか悩んでいます。
私も習い事をしているので深く考えてしまいました。
こういう時、どうすることがお互い良い関係でいられるでしょうか。
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師匠の指導の賜物。共に修練を重ねていけたらね。
なるほどね〜
師匠が、認めたということでもあるのかしら。卒業しなさいという意味なのか…。
ただ、共にしたくないと言われると、拒否されたように感じてしまうし、突き放されるのは寂しいし悲しいわよね。
師匠の器、プライドの問題なのかな…。
師匠の指導の賜物なのだけれどね。師匠は経験も豊富でしょう。師匠も、自分を越えていく弟子を見守りながら、共に修練を重ねていけたらね。良き影響もいっぱいあると思いますけれどね。
師匠がどこまで付き合ってくださるのか、なのかもしれませんね。
一番弟子とはそういうもの
禅の修行にも、同じように師弟関係が存在します。釈迦から達磨を経て現代に脈々と伝わる法の流れを受け継ぐ「老師」と、そこに全身全霊でもって日夜挑む「弟子」のとの間で今日も問答が繰り広げられております。
老師が全てを教え切ったとき、弟子は晴れて「印可(免許皆伝)」を得て法嗣(後継者)となります。この師弟関係はどうかというと、実際のところ仲が悪いことも多く、性格も大きく異なる場合がしばしばあります。しかし、弟子の所作にはどこか師匠の「残り香」が残る。禅門の師弟関係とは、そういうものです。
本当に道を突き詰めるのなら、「啐啄」というように卵の殻を外から突いて割れるのを助けるような優しい指導では到底足りません。獅子は我が子を谷に突き落とすと言いますが、それぐらい辛辣なやりとりがあって当然ですし、むしろそれで健全です。
人対人という指導の中で、弟子だけでなく師匠もまた学びます。そのやりとりには、綺麗な面ばかりではなく、人間らしい嫌な面も出てきて当然です。師匠は弟子を指導する中で、弟子を鏡としてその中に自分を省みるのです。
歳を重ねて心が凝り固まったり、身体が思うようにいかず老いを畏れたり、そういう思いと向き合わなくてはならないのですから、師匠の心中は事実複雑なものでしょう。教わり始めた頃は完璧に思えた師匠が、道を極める中で違った見え方をしてくるのは当然です。芸事の熟達とともに、お弟子さんは内面も確かに成長してきたということでしょう。
弟子として師匠を立てる「義理」はありますが、これは「遠慮」とは違います。どうぞ師匠を超えて頂きたい。その上で、ここまで育てて貰ったという「愛」でもって師匠に向き合い、更に精進されますように。
質問者からのお礼
大心様 中田様
お忙しいところ、ご助言をいただきありがとうございました。
友人と師匠のお付き合いは長いものであり、ずっと続いていくものだと思っていたので、悩むこともあるのだなと感じました。
年を重なるにつれて、友人からも「◯◯については師匠とは考えが違う」と言っていたこともあり、それぞれの存在が確立しているようにも感じました。
友人は師匠を信頼して尊敬しているので
自分が良い評価をされても悪い評価をされても師匠に冷たい言葉をかけられても
関係を崩そうとすることはないと思います。
これからも友人が師匠と向き合いながら、
お互い良い関係を築いていってくれたら良いなと思いましたし、
そう友人にも伝えたいです。
ありがとうございました。