声をかければよかった
先日、車を運転中に一人で歩いている方を見かけました。その日は雨で風が強く、しかもその方の行く方向は高い橋のほうでした。
傘もささずに歩いており、車を停めて声をかけるべきではないかと感じました。
そこでふと、身近な人たちと話したことが頭に浮かびました。私は、エンパスと言われています。全く知らない人でも、過度に感情移入してしまい、実際は本人が必要としていない手助けをしないといけないと感じてしまいます。例えばお年寄りが荷物を持って一人で歩いていると、車にのせて家まで送ったほうがよいのでは、と本気で声をかけそうになります。家族や友人から、不審者だど思われるからやめなさい、相手が望んでいるとは限らないとよく言われます。自分の感情と他人のそれを混同しないよう気を付けています。
その方も好きで歩いているのかもしれない、余計なお世話かもしれない、橋の途中なので車を停めたら他に迷惑かもしれない、自分の用事に間に合わなくなるかもしれない、そう言い聞かせて通りすぎました。
数日後、ニュースで、私が通った約一時間後に、橋から海へ人が転落したと見て胸が締め付けられました。きっとあの方だと。
後の祭りですが、声をかければよかった、直感に従っておけば。と後悔の念が湧き出ると同時に、もし事故ではなくその方が自ら選択したことであれば、その方の歩まれてきた人生はもちろん全く知りませんが、私が介入して生き続ける状況になったことでもっと苦しめることになっていたのかなという考えも浮かびます。お互いにどういう運命でこうなったのか、出口のない自問をしてしまいます。
ただ、通りすぎてよかったとは微塵も思えません。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
私が悩んでもなにも解決しないのはわかっていますが、気持ちの整理がつかず心が落ち着きません。
今回のことをどう捉えればよいでしょうか。そして今後は、余計なおせっかいになったとしても行動すべきでしょうか。
また、私が今その方にできることは、無宗教ですがその方を想って祈ることなのか、なにか別のことなのか、はたまた何もしないで忘れるよう努めるべきか、教えてください。
相手がどんな人、立場でも譲れないところは譲れない
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ご縁は私の思いを超えているので正解はない
ご相談拝読しました。
もしも私があなたと同じ経験をしたならばやはり同じく「声をかければよかった」と思うでしょう。しかし、では実際に声をかけたら救えたのか?と考えると疑問です。そもそも救うとはどういうことか。
自死を望む方がその行為に及ぶ現場に遭遇し止めた方が警察から感謝状を渡されてニュースになったりすることがあります。でもそれが本当に救いなのかはわかりません。同じく希死念慮を抱えた方がそうした報道が美化されて伝えられることに疑問を抱く投稿もSNSでは散見されます。
仏教的に見るならば人を救うのは人ではありません。人を超えた存在、すなわち仏様でなければ人を救えません。
人とは迷い苦しむ存在であり、その人が人に及ぼすことができるのは一面的、短期的なものなのかもしれません。
例えば、おっしゃる通りその場で自死を止めてももっと苦しめることになるかもしれません。
それでもなお、人は人と関わらないと生きていけない。そして仏様の救いのはたらきというのも人を介してでないと伝わらないのでしょう。
私が誰かを救ってあげるとか、何かしてあげるというのでなく、同じ迷い苦しむ者としてたまたま出会ったご縁を共有したい。なぜならば私は私一人で生きているのではなく、出会いや関わりが私という存在を成り立たせているからです。
何が出来たかはわかりませんが一言声をかけることで、あなたもその方の内容となったのでしょう。その内容を命として、その方がその後にどうするかはその方の問題です。
あなたはあなたとしてこの度のご縁をあなたの内容として生きたらいい。何かしなくはいけないとか、してはいけないとか計らう必要はありません。もうその方はあなたの命の内容の一つなのだから。
祈りたくなることも、忘れたくなることもご縁からのはたらきです。その時はそのご縁に身をまかせて感じればいいのだと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございました。命の内容というのが難しくなかなかのみこめませんでしたが、時が経ち、あの場所を通る度に、罪悪感なとでなく、あの方が今どこにいようとも安らかな気持ちでいることを願えるようになりました。